日本近代人文学の構築と漢学の伝統―西村天囚関係新資料の調査研究を中心として―

日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究(B)

「日本近代人文学の構築と漢学の伝統―西村天囚関係新資料の調査研究を中心として―」

(研究代表者:竹田健二、令和3年度~令和6年度)

 

■研究組織

研究代表者

・竹田健二(島根大学学術研究院教育学系教授)

 

研究分担者

・湯浅邦弘(大阪大学大学院文学研究科教授)

・陶徳民(関西大学文学部教授)

・町泉寿郎(二松学舎大学文学部教授)

 

■研究目的(概要)

明治以降、日本近代人文学が構築される中、日本を含む東アジアにおいて伝統的に正統な学問であった漢学も、近代的学問として再構築されていった。本研究は、この近代における日本漢学再構築の実態を解明する試みとして、西村時彦(号は天囚)に着目する。東京大学古典講習科で学び、その後小説家・ジャーナリストとして活躍した西村は、漢学者として『日本宋学史』などの業績を有し、また近世大坂の漢学の学校・懐徳堂の復興を目指す懐徳堂顕彰運動を推進して漢学の普及に努め、晩年は宮内省御用掛を務めた。本研究は、近代日本漢学において特異な位置を占める漢学者・西村時彦を中心に、(1)その学問の全容を解明すること、(2)西村の漢学が儒教思想史に占める思想史的位置を解明すること、を主な目的とする。研究方法は、(ア)懐徳堂顕彰運動及び近世懐徳堂の漢学との関係、(イ)京都における「支那学」との関係、(ウ)東京における「漢学」との関係、(エ)中国との文化交渉、(オ)西洋との文化交渉の観点から、西村の学問について多角的に検討を加え、実証的研究を行う。研究の遂行にあたっては、西村の出身地である種子島・西之表市に現存する新資料に関して精密な調査を行い、その成果を活用する。また、新資料の中でも特に重要なものは、修復及びデジタルアーカイブ化を行い、将来の研究基盤の整備を図る。

 

■研究の学術的背景、研究科大の核心をなす学術的「問い」

明治維新以後、近代化・欧米化により日本の社会全体が激しく変容する中、いわゆる文系の学問の世界も大きく変化し、近代人文学が構築されていった。そうした中、伝統的に学問の中心の地位にあった漢学は、衰退へと向かっていったのだが、決して消滅してしまったわけではなく、伝統を継承しながら近代的な学問、つまり近代日本漢学として再構築された。

町田三郎「明治漢学覚書」(『明治の漢学者たち』〔研文出版、1998年〕所収)は、明治時代の「学術、とりわけ「漢学」の推移変転」について、おおよそ以下の区分が考えられると指摘する。

第一期:明治元年~十年代初め 漢学の衰退と啓蒙思想の隆盛

第二期:明治十年代初~二十二・三年 古典講習科と斯文会の活動

第三期:明治二十四・五年~三十五・六年 東西哲学の融合と日本学への注視

第四期:明治三十七・八年~ 日中学術の総合 漢文大系その他

この指摘からも窺えるように、近代日本漢学の再構築には、例えば大学を含む学校教育制度の整備、欧米の学問の受容、清・中国との交流といった、多様な要素が深くかかわっており、その全容は甚だ複雑である。そうした中、近代日本漢学に関する従来の研究は、専ら個々の学者や、東京と京都に置かれた帝国大学に焦点をあてたものが中心であり、近代日本漢学の全体を捉えること、またそれを東アジア・日本の思想史において位置付けることが十分ではないように見受けられる。

西村時彦(号は天囚)は、幼少時から伝統的な漢学の教育を受け、そして近代的教育制度の整備が進みつつあるいわば過渡期に、漢学の高等教育を受けた人物であり、その一生は、まさに近代日本漢学の再構築が行われた時期に当たる。すなわち、慶応元年(1865)に種子島の西之表に生まれた西村は、郷里の儒者・前田豊山より伝統的漢学の入門期教育を受けた後、明治13年(1880)に上京、亡父と親交のあった重野安繹の家に住み、漢学の専門的な教育を受けるとともに、島田篁村の塾にも学んだ。明治16年(1883)に東京大学に古典講習科が設立されると、その1期生として入学して、当時の最高水準の漢学の教育を受けた。明治19年(1886)に給費制度が廃止されたことに伴い、古典講習科を退学すると、その後は小説家として活躍、やがて活動の場を専ら新聞界に移し、複数の新聞社に勤めた後、明治23年(1890)に大阪朝日新聞に入社した。西村は、大阪朝日新聞を代表する記者として活躍すると同時に、特に明治33年(1900)に清国に渡って以後、『日本宋学史』(杉本梁江堂、明治42年〔1909〕)の刊行に結び付く、日本における宋学の展開の研究、或いは『楚辞』に関する研究等に精力的に取り組んだ。加えて、後述する懐徳堂顕彰運動の推進役となり、漢学の振興に尽力した。大正5年(1916)に京都帝国大学の講師となり、また重建懐徳堂の講師として活躍した後、大正10年(1921)に宮内省御用掛に任ぜられて上京、詔勅の起草等に従事したが、大正13年(1924)に病を得て急逝した。

以上のように西村は、主としてその後半生において漢学者として活発に活躍した。注目すべきは、最晩年を除き、基本的に彼が在野の漢学者であった点である。東京大学古典講習科の同期生である瀧川亀太郎など同世代の漢学者や、後に続く近代学校教育制度のもとで高等教育を受けた世代の漢学者等の多くは、帝国大学や高等学校、専門学校等の教員として漢学の研究・教育に従事したが、西村はそうではなく、近代の漢学者の中でも特異な存在である。

このため、昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書第二十三巻』(昭和女子大学、1965年)等のように、西村を近代の小説家、或いは新聞界で活躍した知識人として注目する研究は多いが、先に触れた町田の『明治の漢学者たち』などを除き、近代日本漢学を対象とした研究が西村を取り上げることは、甚だ少ないように見受けられる。近代日本漢学の再構築の全容を捉えるには、こうした在野の漢学者に対しても十分に検討を加えることが必要と申請者は考える。

在野の漢学者としての西村の活躍をいわば象徴しているのが、懐徳堂顕彰運動の推進である。懐徳堂は、享保9年(1724)、五同志と呼ばれる大坂の大商人らによって設立された漢学の学校であり、享保11年(1726)に江戸幕府による官許を得て「大坂学問所」とも称された。半官半民の形で近世大坂の文教を担った懐徳堂では、中井竹山、中井履軒、山片蟠桃、富永仲基らが活躍したが、幕末以後その経営は行き詰まり、明治2年(1869)に閉鎖された。約40年後の明治43年(1910)、大阪人文会第2次例会において西村が行った講演を契機として、懐徳堂顕彰運動が勃興すると、同年9月、大阪の政界・財界・教育界・言論界の全面的協力のもとに懐徳堂記念会が設立され、同会は明治44年(1911)に懐徳堂記念祭を挙行した。更に同会は、その活動を永続化するため、大正2年(1913)に財団法人となり、大正5年(1916)に重建懐徳堂と称される講堂を建設した。その初代教授として着任したのは、広島高等師範学校教授であった松山直蔵である。以後重建懐徳堂は、近代的学校教育制度の学校とは異なる、一般の市民向けの民間の学校として、第2次世界大戦末期の大阪大空襲によって焼失するまで存続した。その間、専任の教員、及び京都帝国大学の教授陣らにより、高い学術的水準を有する講義・講演が、多数開講された。重建懐徳堂において講じられたのは漢学だけではないが、その名が示すように、そもそもが懐徳堂の再興が目指されていたこと、また専任の教授を務めた三人がいずれも漢学者であったことなどからも窺えるように、その中心は漢学であった。こうした懐徳堂顕彰運動、及び重建懐徳堂の創設・運営を強力に推し進めた中心人物こそ、西村であった。近代日本漢学の再構築の全容を捉えるには、こうした在野の漢学についても十分に検討を加えることが不可欠である。

日本近代人文学の構築が進む中、在野の漢学者・西村時彦の学問は如何なるものであったか、そしてそれは儒教思想史にどのような位置を占めるか。これが本研究の核心をなす「問い」である。

 

■本研究の目的および学術的独自性と創造性

本研究の目的は、(1)西村の漢学の全容を解明すること、(2)西村の漢学が、儒教思想史において占める思想史的位置を解明すること、の二点である。

本研究の学術的独自性は、第一に、上述の通り、従来ほとんど注目されてこなかった在野の漢学者・西村時彦に着目すること自体にある。第二に、西村の出身地である種子島・西之表市に現存することの判明した、西村の著述を中心とする新資料を活用することにある。

西村関連の資料としては、大阪大学附属総合図書館に収蔵されている「碩園記念文庫」がよく知られている。同文庫は、西村の没後、故西村博士記念会が西村家より購入した西村の蔵書で、同会は大正14年(1925年)、財団法人懐徳堂記念会に「碩園記念文庫」と命名して寄贈した。第二次世界大戦後、同財団法人が蔵書をすべて大阪大学に寄贈したことから、現在大阪大学総合図書館の懐徳堂文庫資料の一部となっている。

ところが、この碩園記念文庫には、西村の没後にまとめられた「碩園先生著述目録」(『懐徳』第2号〔懐徳堂堂友会、1925年〕所収)に記載されている資料、特に稿本の多くが含まれていない。このため、西村に関する資料は、碩園記念文庫以外にも存在したと考えられるが、そうした資料が果たして現存するのかどうかは、これまでまったく不明であった。

2017年以降、研究代表者の竹田、研究分担者の湯浅は、西村の故郷である種子島・西之表市に続く西村家の子孫、及び西之表市の協力を得て、西村家の所蔵する資料について調査を行ったところ、西村に直接関係する貴重資料が西村家に多数現存することが判明した。西村家所蔵資料に対しては、2004年に宮内庁が調査しているのだが、その調査の対象は専ら書簡であり、他の資料については十分な調査がなされていなかった。調査は現在も継続中だが、西之表市の種子島開発総合センター所蔵資料の中にも、西村に直接関係する貴重資料があることを確認した。

驚くべきことに、西村家・種子島開発総合センターで発見された新資料には、上述の「碩園先生著述目録」に記載されている資料、例えば、「屈原賦説」・「尚書異読」・「尚書文義」・「論語集釈」・「儒学委源」・「経子簡編」等と題された資料が多数含まれていた。西村の漢学は、従来日本漢学や『楚辞』の研究を中心にすると見なされてきたが、これらの新資料は、西村が儒教関係の文献に対して広く研究に取り組んでいたことを示すものと考えられ、非常に重要である。

また、西村家所蔵資料からは、「碩園先生著述目録」にも記述されていない未知の資料が発見されている。その一つは、懐徳堂顕彰運動勃興の契機とされる、明治43年(1910)の大阪人文会第2次例会における西村の講演の原稿、もしくはそれを含むと見られる資料である。この資料は、西村による懐徳堂研究の実態を解明する重要な手がかりとなると考えられる。

西村家・種子島開発総合センターで発見された新資料から、西村の漢学についての新たな知見が得られることは確実で、その漢学の全容が解明可能となったと申請者は考える。本研究ではこうした新資料の発掘・調査を進め、西村を近代日本漢学再構築期の漢学者の一人として捉え直し、伝統的漢学から近代日本漢学が如何に形成されていったのか、その実態を解明し、近代日本人文学の構築について新たな展望を得る。ここにこを本研究の最大の学術的独自性・創造性がある。

 

■本研究で何をどのように、どこまで明らかにしようとするのか

本研究では、先ず西村の漢学について、新資料を活用しつつ、研究代表者・研究分担者が分担して、以下の表に示す五つの観点から検討を加える。

(ア)

懐徳堂顕彰運動との関係

担当:研究代表者・竹田健二

(イ)

重野安繹・島田篁村他、東京の「漢学」との関係

担当:研究分担者・町泉寿郎

(ウ)

内藤湖南・狩野直喜他、京都の「支那学」との関係

担当:研究代表者・竹田健二

    研究分担者・湯浅邦弘

(エ)

張之洞他、中国との文化交渉との関係

担当:研究分担者・陶徳民

(オ)

世界一周に見る西洋との文化交渉との関係

担当:研究分担者・湯浅邦弘

(ア)については、上述の明治43年(1910)の大阪人文会第2次例会における西村の講演の原稿、もしくはそれを含む資料等の検討により、西村と懐徳堂顕彰運動の関わりについて解明する。(イ)・(ウ)については、当時の日本における学問のネットワークとの関わりの中で、西村の漢学がどのように形成され展開したかについて、多角的に検討する。西村家及び種子島開発総合センター所蔵の新資料の中には、重野や狩野、或いは瀧川亀太郎らとの交際を示す資料が確認されている。そこで、それらの検討を進めて、東京・京都の両帝国大学を中心とする同時代の日本漢学と西村の漢学との関係を解明する。また、(エ)・(オ)については、西村は合計再度清国に渡り、張之洞をはじめとする現地の学者や政治家と交流しており、また明治43年(1910)には、大阪朝日新聞社が主催した第二回世界一周に同行して、欧米を訪問している。そうして清の学問や欧米文明と実地において接したことは、儒学に関する西村の理解、或いは重建懐徳堂という近代社会における新しい民間の学校についての西村の構想等と関係があったことが十分に予想される。西村家及び種子島開発総合センターの新資料の中には、そうした西村の海外との文化交渉に関するものも確認されていることから、それらの検討により、海外との文化交渉が西村の漢学に何をもたらしたのかを解明する。

なお、特に西村家の所蔵する新資料には、虫損等による損傷がかなり激しいものがある。それらを直ちに資料として研究に用いることは極めて困難であるため、本研究においては、新資料に対してこれまで行ってきた調査を踏まえつつ、改めて資料について精密な調査を行い、その中で特に修復に値すると考えられる貴重資料を選定し、その修復を専門業者に発注する。また、特に近代日本漢学の成立と展開を考える上で重要と見なされる貴重資料については、将来の研究基盤の整備として、そのデジタルアーカイブ化を行う。

次いで、研究代表者・研究分担者は、上述の分担に応じて五つの観点からそれぞれ検討した結果を、定期的に開催する研究会合においてそれぞれ発表し、全員で討議する。その討議を通して、西村の漢学の全容と、その儒教思想史において占める思想史的位置の解明を試みる。また、各自討議を踏まえた上で、論考の執筆や国内外の学会における口頭発表を行う。

研究会合は年3回、基本的には対面の形式で開催する。研究の進展によっては開催回数を増やす。また、新型コロナウィルス感染症が拡大するなど、状況によっては対面の形式ではなく、オンラインで研究会合を開催することとする。

なお、本研究の研究期間の最終年度に当たる令和6年(2024年)は、西村が没した大正13年(1924年)から100年後、また懐徳堂が創設された享保9年(1724)から300年後の節目の年にあたる。そこで最終年度には、懐徳堂・重建懐徳堂を中心に、日本漢学に関する思想史研究を主なテーマとする学術シンポジウムを開催し、本研究の研究成果を積極的に公開するとともに、日本漢学に関する思想史研究の将来について展望する。

 

■本研究の着想に至った経緯と準備状況

本研究の代表者の竹田、研究分担者の湯浅らは、平成12年(2000)に懐徳堂研究会を結成し、懐徳堂及び重建懐徳堂に関する共同研究を開始した。同研究会のメンバーは、これまでその成果を多数の論考として発表し、また湯浅が平成19年度の科学研究費補助金・研究成果公開促進費を代表者として得て『懐徳堂研究』(湯浅邦弘編著、汲古書院、2007年)を、竹田が『市民大学の誕生―大坂学問所懐徳堂の再興―』(大阪大学出版会、2010年)を刊行した。懐徳堂研究会はその後も共同研究を継続し、平成25~28年度に科学研究費補助金・基盤研究(B)「懐徳堂の総合的研究」(課題番号25284012、研究代表者:竹田健二)を得、更に平成30年度に科学研究費補助金・研究成果公開促進費(課題番号18HP5014、代表者:竹田健二)を得て、研究会の共同研究の成果を『懐徳堂研究第二集』(汲古書院、2018年)として刊行している。

この懐徳堂研究会の共同研究活動を進める中で、2017年6月、種子島・西之表市在住の西村家の子孫から、西村に関連する資料が現存するとの情報を得た。そこで同年8月、竹田・湯浅らが西之表を訪問し、調査を開始した。調査はなお継続中であるが、調査にあたっては西之表市の協力を得て、種子島開発総合センターに資料を移送して行っている。

2019年の調査の際、西村家の資料とは別に、種子島開発総合センターにも西村関係資料が現存することを確認した。現時点では、西村の死後に種子島に移送されて西村家に伝承された資料の一部が、西村家資料の中から抽出されて種子島開発総合センターに所蔵されたものと推測されるが、その経緯や時期等を含めて、両資料の関係についてはなお不明である。

こうして発見された西村関係の新資料の調査が進み、各資料の有する価値が明らかになるにつれて、この西村に関する新資料を活用することによって、従来十分には解明されていない西村の漢学の全容を解明することが可能であること、またその解明によって、近代日本漢学の再構築の全容を解明することが可能となることを、竹田・湯浅は確信した。そこで、懐徳堂研究会の中で特に近代日本漢学に関する研究実績を有する竹田・湯浅を中心として、近代日本漢学に関して多くの優れた業績を有する町、及び近代日本と清・中国との文化交渉に関して多くの優れた業績を有する陶の協力を得て、新たな研究組織を構成して本研究を行うことを企画した。

以上の経緯からも明らかなように、本研究の研究代表者及び研究分担者は、近代日本漢学に関する十分な研究実績を有している。また前述の種子島の西村家及び種子島開発総合センター所蔵の西村天囚関係の資料に対しては、竹田・湯浅が、西村家及び西之表市の協力を得て、目録作成を含む調査に既に着手している。こうしたことから、本研究を遂行する準備は十分に整っている。

 

■関連する国内外の研究動向と本研究の位置付け

近代日本人文学の構築、或いは近代日本漢学の再構築に関連する近年の研究としては、井田太郎・藤巻和宏編『近代学問の起源と編成』(勉誠出版、2014年)、高木智美『内藤湖南―近代人文学の原点―』(筑摩書房、2016年)、甚野尚志・河野貴美子・陣野英則編『近代人文学はいかに形成されたか』(勉誠出版、2019年)、品田悦一・齋藤希史『「国書」の起源―近代日本の古典編成―』(新曜社、2019年)などがあるが、前述の通り、西村の漢学に言及するものは町田三郎『明治の漢学者たち』(研文出版、1998年)などを除いて非常に少ない。

西村の漢学に焦点を当て、しかも発見されたばかりの大量の新資料を活用して行う本研究は、画期的な研究として位置付けられる。