懐徳堂の精神

1.「倫理」─『五孝子伝』と『蒙養篇』─

人の道

懐徳堂の初代学主三宅石庵は、享保11(1726)年、懐徳堂が幕府の許可を得て、官許学問所となったのを記念し、『論語』と『孟子』のそれぞれ冒頭の一章について講義を行った。その内容は、『萬年先生論孟首章講義』として筆録されている(詳細については「懐徳堂の講義」参照)。

その中で石庵は、『論語』学而篇の「学」について「人と生れたるものは、人の道を学ばねばならぬ」と述べた。すなわち、学問とは、単なる読み書きそろばんや、商売上手になるための技術を学ぶのではなく、「人の道」を学ぶことだと宣言したのである(詳細については、「懐徳堂の講義」参照)。人間は、気質の偏りや耳目の欲によって、その道を失うことがある。それを決して失わないのが「聖人」であり、「学」とは、その「聖人」の道を学ぶことだと言うのである。

では、「人の道」とは具体的に何であろうか。石庵は、当時の身分階級を前提に、「君臣父子夫婦兄弟朋友の五つのものが各々の道にかなう」ことであると説く。つまり、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、母は母らしく、子は子らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしく兄弟朋友は兄弟朋友らしくあることが、「人の道」に他ならないと言う。

あまりに常識的なことを言っているようであるが、これを厳守するのはなかなか難しい。人間の歴史は、この道を踏み外す歴史であったと言ってもよいからである。臣下が君主の位を簒奪したり、子が父を殺めたりという、「人の道」を逸脱する事件は、悲しい現実として多く存在した。

懐徳堂で重視されたのは、こうした「人の道」であり、特に「孝」という徳目であった。

中井甃庵『五孝子伝』

懐徳堂2代目学主・中井甃庵(名は誠之)の著。甃庵が実際の事件をもとに記した孝子伝であり、刊記に「元文己未のとし(元文4年[1739])三月廿三日 誠之しるす」とある。原本は、大阪府立中之島図書館所蔵。明治44(1911)年に『懐徳堂五種』として懐徳堂記念会から復刊されている。

内容は、死罪が確定した「かつらや太郎兵衛」の身代わりになりたいと奉行所に出頭した五人の子の「孝」を顕彰するもので、五井蘭洲は、この本文の後の識語に、「この五孝子の事情は、中井甃庵が記したものである。まことに見るべき内容であり、文章にも胡蝶がなく、これは五孝子の孝と同様である。これは天性というべきで、古今でも稀なものである」、との旨を記して絶讃している。懐徳堂では、以後も「孝」を重要な徳目として揚げ、孝子を探して顕彰するまでに到り、それはさらに大坂町奉行による孝子顕彰運動となって展開していった。甃庵の「五孝子伝」は、懐徳堂におけるこうした精神を、早くも明確に宣言したものと言える。また、江戸幕府における孝子の顯彰(『孝義録』の編纂)との関係からも注目される。

中井竹山『蒙養篇』

懐徳堂4代目学主・中井竹山が年少者向けに分かりやすく「人の道」を箇条書き(漢字仮名交じり文)にした書。全53条。草稿では「奠陰消息」と題していたが、後に「蒙養篇」と改称した。明治44年(1911)に、懐徳堂記念会から『懐徳堂五種』の一つとして活字翻刻されている。読者対象は、主として年少者(町人)であるため、そこに説かれる倫理は、家庭内の倫理、学習の心得、商業倫理などが中心である、特に、「孝」の精神を説く条が多数を占めている。また、習字の手本や暗誦を意図して「候文」で記されている。

例えば、「孝」については、冒頭の第1条に、「父母によくお仕えするのを孝といい、年長者によくお仕えするのを悌と名づける」と「孝」「悌」をまず第一の徳目として揚げている。そして第2条で、「孝悌の二字は日夜心がけて、一生忘れてはならない」とそれを強調している。また、第16条では、「孝」について具体的に、「親に仕えるというのは、(口先だけではなく)手足の働きを第一とすべきである。子は親の恩愛に甘えて孝行を怠りやすい。よくよく心がけねばならない」、第30条では「一つのことを行うにも、それが親の心に叶うかどうかをよくよく考えねばならない」と説くなど、懐徳堂で「孝」が重要な理念として揚げられていたことが分かる。

また、商業活動にともなう「利」について、第25条に、「商人が商業活動によって得る利益は、武士の知行(土地支配による利益)、農民の作徳(年貢を納めた後に残る純益)に相当する。それらはみな商・士・農それぞれの「義」であり「利」ではない。ただし、分不相応の高い利益を貪るような気持ちを「利欲」といい、これはよこしまな誤った道に落ちるものであり、義に背く行為である」と述べ、第26条でも「町家(商家)は利欲が肝心と考えるのは、大いなる誤りである」と説く。このように竹山は、商業活動を、商人の「義」と論じ、それ自体は決して非難されるべきものではないと断言した。ここには、「義」と「利」についての柔軟な思考が窺える。これも、大坂の町に生まれた懐徳堂の大きな特色の一つである。

「忠孝」

主君に対するまごころ(忠)と親に対するまごころ(孝)。忠義の心と親孝行とは、古代中国以来、重要な倫理と受け止められていた。「孝」は家庭内・血縁関係内における最も重要な徳目であり、「忠」は公的・社会的な場において最も重視される徳目だからである。懐徳堂でも、創立間もない頃の学舎の玄関には、「学問とは忠孝を尽し、職業を勤むる等の上に之有る事にて候」と記された壁書が掲示されていたという(詳細については、「懐徳堂の学則」参照)。

しかし、「孝」「忠」は本来異なる概念であり、併存しない局面もある。「孝」については専論する儒家の経典『孝経』は、「孝」とは、具体的には、父母から授けられた体(身体髪膚)を大切にすることを通して父母を敬愛し、また、宗族の源流である祖先の祭祀に務めること、と定義する。さらに、孝が政治や教育の根源であり、孝は、親に仕えることに始まり、君に仕えることを半ばとし、社会で身を立てることをもって終わると定義する(開宗明義章)。ここには、父母に対する敬愛の情を、そのまま君主に対する忠誠心に移行させようとする意識が認められる。別の箇所の『孝経』は、父に仕えるようにして君に仕えよ、「孝」の心でもって君にお仕えすれば、それが「忠」になるとも説いている(士章)。

こうした「孝」と「忠」の理解は、氏族の連合体によって構成されていた古代日本社会にも適合し、『孝経』は『論語』とともに、長く重視されていくことになった。また、戦前戦中の日本において、こうした「忠孝」観念は、国家主義的体制のもとで、きわめて重視されるに至った。

懐徳堂では、早くから「孝」の重要性が説かれており、中井甃庵の『五孝子伝』、中井竹山の『蒙養篇』などはその代表であり、孝子顕彰の運動も展開された。「孝」こそはすべての道徳の根源であり、「人の道」の基礎と考えられたのである。

しかし、このことは同時に、元禄・享保期に花開いた新たな文化のかげで、そうした理念が必ずしも現実に反映されなくなっていたことをも示唆している。新しい豊かな文化が形成されるということは、それまでの秩序が大きく揺らぐことをも意味するからである。そうした時代にあって、懐徳堂が求めたのは、まさに伝統的な「人の道」、「孝」の思想であった。

「義利」

正しい筋道(義)と利益。いずれも中国古代の初期儒家思想の中に見える概念であるが、孟子によって両者は対立的に捉えられ、人は利益ではなく、正義を追求すべしという倫理観のもとで、特に商業による利益の追求は義に反する行為と理解されるに至った。しかし、春秋戦国時代、この儒家と対立した墨家は、これとは異なる「義」「利」の論を展開した。つまり、「義」の追求とは、個人がそう思う正義を身勝手に追い求めることではない。世界の人々に共有されるべき正義の追求でなければならない。このような義を追求することは、そのまま世界の利益につながる。このように墨家は、天下万人の「義」「利」を考えるなら、二つは決して矛盾することはないと説いた。侵略戦争を阻止するために身を挺して弱小国の防衛戦争に従事した墨家集団ならではの考えである。

また、その後の中国の歴史においても、実際には、真摯に努力を重ねた士大夫が科挙に合格し、栄達と富裕をきわめるというのは理想の姿とされた。

こうした「義」「利」の問題に対して、懐徳堂学派は、その両立を説いた。初代学主の三宅石庵は、仁義を実践する者は、自ら利益を追求するわけではないが、自然と利がついてまわるのである。……「利」は勝手のよいものであって、そのこと自体に差し障りがあるわけではない。しかし、利益を追求することをあまりに好むようになると、そこに弊害が生じるのである、と説いた(『論孟首章講義』)。ここには、「利」と「義」についての柔軟な思考が見られる。同じことは、上記のように、中井竹山の『蒙養篇』にも見えるのである。

2.「批判」─『非物篇』と『非徴』─

「鵺」学問

懐徳堂初代学主・三宅石庵の学風を批判的に呼ぶ名。三宅石庵は、一つの学派に固執することなく、諸学の良い点を何でも積極的に取り入れた。その折衷的な独特の学風は「ぬえ学」と批判されることもあった。鵺とは、伝説上の怪獣の名で、頭は猿、足は虎、尾は蛇に似ているといわれる。『先哲叢談』には、「世石菴を呼んで鵺学問と爲す。此れ其の首は朱子、尾は陽明、而して声は仁斎に似たるを謂ふなり」という香川修徳(号は太沖)の言が見える。しかし、こうした態度は、懐徳堂が幕府の官許を得ながらも、基本的には大坂の町人に支えられた自由闊達な精神を持つ学校であったことと無縁ではない。そこで説かれた倫理道徳も、決して硬直したものではなく、儒家の道徳論では厳しく対立するとされてきた「義」と「利」についても柔軟に考えるなど、懐徳堂そのものが良い意味での鵺的要素を含んでいたとも言える。

五井蘭洲『非物篇』

『非物篇』

五井蘭洲の主著で、荻生徂徠の『論語徴』を批判したもの。乱数は江戸在住中に荻生徂徠の著に触れ、本書の執筆を開始、蘭洲没後4年にあたる明和3年(1766)、中井竹山によって校訂・浄書された。全六冊からなる本書は、総論である「論語徴」「物茂卿」を筆頭に、『論語』20巻の中の主要な章について、各々まず「徴曰…」として徂徠の解釈を引用し、それに続いて「非曰…」として徂徠批判を展開する、という構成をとる。また、全20巻の後に「非物篇附録」として徂徠の『弁道』に対する批判を記す。本書は、竹山の『非徴』とともに、天明4年(1784)に懐徳堂蔵版で刊行された。表紙題簽の外題は、それぞれ「正編非物篇」「続編非徴」と記された。また、平成元年(1989)、懐徳堂友の会から懐徳堂文庫覆刻叢書二として復刻刊行されている。

 内容は、厳しい徂徠批判に終始しているが、総論部分では、「徂徠は門を閉ざして本を読み、世間との関わりを持たなかった。詰問する者があってもつっぱねるばかり。いかに徂徠が出世したとしてもそれは独りよがりの偏屈なものである(非に曰く、嗚呼徂徠門を杜して書を読み、世と相渉らず、時に詰り問う者有るや、輒ち曰く、「習い異にし対を置かず。是れ我が家法」と。是を以て栄邁余り有りと雖も、亦た終に独学固陋に免れず)」と述べる。これは徂徠の基本的な人間性や勉学の方法に対する批判である。また徂徠は「古言に徴して実証的に解釈したと言っているが、実は多くの主観的解釈を混入させている(徂来(徠)是の書を撰じ、即ち言う「皆諸を古言に徴す」と。故に命づけて『論語徴』と曰う。然るに書中半ば諸を胸臆に取り、以て説を為す。我未だ其の「徴」為るを見ざるなり)」と、『論語徴』の解釈全般についても批判する。これは、「徴」という看板とその実態とにずれがあるとの痛烈な指摘である。さらに、「徂徠は梁の皇侃の『論語義疏』を見ておらず、皇侃・朱子共通の解釈を朱子独自の説として批判するという大きな誤りを犯している(且つ彼初め皇侃の『義疏』を睹ず。晩年『徴』既に成り、偶々得て之を読む。然るに業を卒うる能わずして物故す。……故に朱子皇説に同じき者を以て朱説と為し、誤駁して道学の見と為す者多し。笑うべきかな)」と述べる。『論語』注釈の歴史は古く、代表的な注釈としては、三国魏の何晏かあんの『論語集解』(古注)、梁の皇侃の『論語義疏』(古注系)、南宋の朱子の『論語集注』(新注)がある。このうち、徂徠が主として批判するのは、朱子学の解釈、すなわち『論語集注』である。しかし、徂徠は、『集解』『義疏』『集注』の弁別を充分に行うことなく、皇侃と朱子の解釈を混同したまま朱子批判を行っていると、『論語』注釈史の立場からも厳しく批判を加えたのである。このように、この書は徂徠の基本的な人間性や学問の姿勢から個々の解釈に至るまで厳しい批判を展開しており、その精神は、中井竹山の『非徴』にも受け継がれた。

中井竹山『非徴』

『非徴』中井竹山の主著で荻生徂徠の『論語徴』を批判したもの。竹山の手稿本は8冊からなり、1冊~5冊目に各2巻、6・7冊目には各3巻、8冊目には4巻の計20巻を収録している。天明4年(1784)、五井蘭洲の『非物篇』とともに、懐徳堂蔵版で刊行された。『非物篇』の精神を継承し、その続編に当たるとの意識から、表紙題簽には「続編非徴」と記された。ただし、その後、手稿本の第1冊目(学而・為政の二巻を収録)は失われ、1988年に懐徳堂文庫覆刻叢書一として復刻刊行された際には、懐徳堂所蔵の刊本でその部分を補っている。

全体は、巻頭の「総非」という総論に始まり、以下、学而篇からまでの各章について、『非物篇』の内容を補いながら注釈を加えている。その基本的姿勢は、荻生徂徠批判で一貫しており、例えば、「総非」では、「非に曰く、吁嗟(ああ)徂来(徠)物氏、学術の病、其の症、自ら大いに名を奸(もと)むるに在り」と、物氏(徂徠)の学問の弊害が「名」をあげることにつとめるという尊大な態度にあることを指摘し、また、その根本的な原因は、徂徠が純粋な学術的態度からではなく、伊藤仁斎への対抗意識から『論語』注釈を行ったことにあると説いている。さらに、徂徠の学は時の政事や風俗を乱し、志に燃えた若き学生たちに「妖妄邪誕の痼(こ)」(あやしく乱れたなおりにくい病)を植えつけるものである、と厳しく批判している。

本書には、権威に屈することのない強烈な批判精神が見られると言える。もっとも徂徠批判については、朱子学の正当化を意図した寛政異学の禁という時代の潮流も無関係ではない。しかし、こうした批判精神は、『非物篇』や『非徴』にのみ突出した現象ではなく、竹山の弟の中井履軒にも、また、それに続く学者たちにも貫かれた、懐徳堂精神の一つであった。

なお、「物」とは、徂徠のことを指す。徂徠が物部氏の流れを汲む者として中国風に「物茂卿」と称していたことによる。また「非徴」とは、その徂徠の『論語徴』を「非」難するという意味である。