懐徳堂の精神

1.「倫理」─「五孝子伝」と「蒙養篇」─

人の道

懐徳堂の初代学主三宅石庵は、享保11(1726)年、懐徳堂が幕府の許可を得て、官許学問所となったのを記念し、『論語』と『孟子』のそれぞれ冒頭の一章について講義を行った。その内容は、『萬年先生論孟首章講義』として筆録されている(詳細については「懐徳堂の講義」参照)。

その中で石庵は、『論語』学而篇の「学」について「人と生れたるものは、人の道を学ばねばならぬ」と述べた。すなわち、学問とは、単なる読み書きそろばんや、商売上手になるための技術を学ぶのではなく、「人の道」を学ぶことだと宣言したのである(詳細については、「懐徳堂の講義」参照)。人間は、気質の偏りや耳目の欲によって、その道を失うことがある。それを決して失わないのが「聖人」であり、「学」とは、その「聖人」の道を学ぶことだと言うのである。

では、「人の道」とは具体的に何であろうか。石庵は、当時の身分階級を前提に、「君臣父子夫婦兄弟朋友の五つのものが各々の道にかなう」ことであると説く。つまり、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、母は母らしく、子は子らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしく兄弟朋友は兄弟朋友らしくあることが、「人の道」に他ならないと言う。

あまりに常識的なことを言っているようであるが、これを厳守するのはなかなか難しい。人間の歴史は、この道を踏み外す歴史であったと言ってもよいからである。臣下が君主の位を簒奪したり、子が父を殺めたりという、「人の道」を逸脱する事件は、悲しい現実として多く存在した。

懐徳堂で重視されたのは、こうした「人の道」であり、特に「孝」という徳目であった。

中井甃庵『五孝子伝』

中井甃庵(名は誠之、通称は忠蔵、竹山・履軒の父、懐徳堂二代目学主)の『五孝子伝』は、甃庵が実際の事件をもとに記した孝子伝であり、「元文己未のとし(元文4年[1739])三月廿三日 誠之しるす」とある。原本は、大阪府立中之島図書館所蔵。明治44(1911)年に『懐徳堂五種』として懐徳堂記念会から復刊されている。

その大意は、次の通りである(なお、(1)~(8)の番号は、便宜的な内容区分であり、後に掲げた『蒙養篇』の原文にほぼ対応している)。

(1)家で船運の取引をする大坂堀江の居船頭「かつらや太郎兵衛」には、長女「伊知」十六歳を頭に四人の子供がいた。(2)太郎兵衛とともに船運を営む沖船頭の「新七」は、秋田から大坂へ米を運ぶ途中、暴風に遭って難破。船を「水船」として帰港させる一方、ひそかに米を横領して換金し、太郎兵衛に分け前を押しつけて逃亡した。太郎兵衛は金に目がくらんでこれを受け取り、その後、事件が発覚して捕縛され、死刑と決まった。

(3)長女の伊知は、自分たちの生活のために父がやむなく罪を犯したと考え、父の身代わりに自分たちが罰せられることを願う。(4)その思いを妹のまきに打ち明け、嘆願書を作成。他の三人の実子、および養子の長太郎までが同意して、奉行書に出頭した。(5)奉行所はその願いを一度は却下したものの、大坂城代の備中守太田侯はそれを哀れに思って再尋問した。(6)その結果、子供たちの願いが誠実なものであるのを確認した。(7)この旨を江戸に伝えて伺いをたてたところ、大嘗祭の特赦として、太郎兵衛は大坂三郷払いという軽い罰で済んだ。

(8)『五孝子伝』は、この事件を聞いた甃庵によって筆録された。長太郎は実子ではないから「五孝子」と記すのはどうかと言う人もあったようであるが、甃庵は、長太郎も同じ心で嘆願したのだから、実の子であるかどうかは問題にならないとし、また、幼少の「とく」八歳、「初五郎」六歳も、幼少のゆえ、尋問に際してその心情をはっきりと答えられなかったものの、姉の心が浸透して同じく出頭したのであるから、彼らを総称して「五孝子」と言うのは当然であるとしめくくっている。

五井蘭洲(純禎、懐徳堂助教)は、この本文の後の識語(写本や刊本などで、本文の前か後に、その本の来歴や書写の氏名・年月などの情報を記したもの)に「この五孝子の事情は、中井甃庵が記したものであ。まことに見るべき内容であり、文章にも誇張がなく、これは五孝子の孝と同様である。これは天性というべきで、古今でも稀なものである(五孝子之状、中井甃庵記、爲實可觀、而文不溢鳴、同五孝子之孝也、蓋得諸天性、而古今之所希矣)」と記して絶讃している。

懐徳堂では、以後も「孝」を重要な徳目として掲げ、孝子を探して顕彰するまでに至り、それはさらに大坂町奉行による孝子顕彰運動となって展開していった。甃庵の「五孝子伝」は、懐徳堂におけるこうした精神を、早くも明確に宣言したものと言える。

以下、『五孝子伝』の要点が分かるよう、便宜上、いくつかの段落に分けて見出し語を立て、関係する部分の原文を記してみよう。(但し、原文が漢文表記となっている箇所は書き下してある。)

  1. 家族
    孝女あねの名伊知、年十六、次萬幾十四、次とく八ツ、次初五郎六ツなり。父かつらや太郎兵衛、……
  2. 事件
    新七……太郎兵衛にむかひて、罪おそろしけれど、かくはからひぬとて、金そこばくとり出で、これおさめいれよといふ。太郎兵衛ひがことするなと見つつ、金に心やうつりけん、あなかしこ人にもらすなとて、ふかくかくして、……
  3. 身代わり
    あねはことさらにものをもくはず、夜に入てもつやつやめをもあはさで、ためいきふきてひとりごとすなるを、母も三人の子もよくいねたり。おまきなん聞とめて、あねご、やよ、われもかなしくてねむらずといふ。あねききて、さらばものいはんとて、耳もとによりて、父の心はつねにはまめしくて、神佛にもよくつかへたまふに、今かかるつみおかし給ふ事、ひとへにわれらを世にあらせてなどのまよひなるべし。さればわれらがいのちをささげて、父の身がはりにたたんという事を、おほやけにねがい奉らんはいかに、……
  4. 嘆願
    燈をかかげて書けるやうは、おやのかはりに子五人とは申ながら、長太郎は義理ある中の子なり。のこり四人を父のかはりにいのち御とり下され候はば、ありがたく存まゐらせ候。霜月廿三日としたためて、……長太あやしみたづねて、しかじかのよしをききて、われもくはへよといふに、きかずして、おほやけにいたりつく。
  5. 却下
    今はたなにをかねがはん。はやかへりねと……ぜにそこばくたまひてかへれとあるを、親のいのちをこそ乞奉れ、この錢なににかせんとて、おしかへして又なく。……備中守太田侯……なんぢらがねがひ無益の事なり。命かはらんといふも、ふたたび逢見てなどおもふべし。……あねかしこまりて、其ことはりもはじめよりぞんじ知りぬ。めしかへらるるにおいては、逢見ぬこともつゆうらみ奉らじといふ。……誠に死をきわめたるありさまなり。
  6. 尋問
    長太いかにとのたまふに、……ちちのかはりにて候へば、長太郎がいのちめしあげられ候へとすすみ出たり。とく初五はいかにとのたまふに、劯は色うごき、初五はかしらをふりていなみたるさまなり。これまたあはれと見たまふ。
  7. 特赦
    ことし未の年三月二日、又めしいだされて、太郎兵衛つみ深しといへども、大嘗會の赦としていのちをゆるして、北南天満三郷おひはらはせらるるぞ、非常の大罪、なんじらがねがひによりてゆるさるべきようなれど、ふびんの事に聞しめしあげらるるによりて、さて去年よりことしまでは、御評議ありて程すぎぬ、子どもらに御たたりなし。……いとま乞せさせよとて、おほやけの庭上にてひきあはさするに、おやは子をいだき、子はおやをささぐるようにして、うれしなきになく、おほやけの君々よりかみなかしも、見とみきくときくものみななく。
  8. 五孝子
    五孝子としるしたるはいかにといふ人あり。長太はもとより同じ心に願ひたれば、かりの子のへだてなし。末ふたりが身にも、あねの心ゆきわたりてしたがふめれば、あねの心のものいはぬなり。五人の人は誠をみつるうつはもののかずなり。みてたる誠はひとつなり。五孝子といふもまたむべならずや。

中井竹山『蒙養篇』

懐徳堂四代目学主中井竹山の『蒙養篇』は、年少者向けに「人の道」を分かりやすく箇条書きにした書である。全五十三条。原本は大阪大学懐徳堂文庫所蔵。明治44(1911)年に、懐徳堂記念会から『懐徳堂五種』の一つとして復刊されている。 読者対象は、主として年少者であるため、そこに説かれる倫理は、家庭内の倫理、学習の心得などが中心であり、特に、甃庵の『五孝子伝』にも示された「孝」の精神を説く条が多数を占めている。以下、便宜上、(1)「倫理全般、対父母・対年長者」、(2)「学問」、(3)「商業活動」の三つに内容を分類した上で、関係する条項を列挙する。(但し、原文が漢文表記となっている箇所は書き下してある。また、各冒頭の数字は条数である。)

(1)倫理全般、対父母・対年長者

  1. 「父母に善く事ふるを孝といひ、長上に善く事ふるを悌と名付け申し候」
  2. 「孝弟の二字は、昼夜御心掛候て、一生御失念之有るべからず候」
  3. 「父子君臣夫婦長幼朋友を五倫と名付けて、一日も離るべからず候。大切に其の道を守らるべく候」
  4. 「五倫の道と申すは、親義別序信の五事にて候。能々記得申さるべく候」
  5. 「親とは、恩愛の篤きなり。義とは、筋合を違へぬなり。別は、分隔の正しきなり。序は、次第の見事なる。信は、詐を云ざる事にて候」
  6. 「人として人の道をしらず行はずしては、人と生れたる(かい)は之無く候」
  7. 「小児は、長者を敬い、其の指図を背くべからず候。侮がましき事、毛頭之有るべからず候」
  8. 「親に事ふるは、手足の働第一たるべし。恩愛を恃みて怠り易し。能々心を用いらるべく候」
  9. 「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅の事も一分に任す事、必ず之有るべからず候」
  10. 「人の大切なる宝は、一心の善に在りと知るべし。金銀珠玉は、山の如く積置ても時有りて尽くべし。一心の善は、一生用ても尽る期の無きなり」
  11. 「長者の接伴に参り候節、よき御接伴などと挨拶致すべく候。是は御馳走などとは申すべからず候。少者の為の設に非ず候故なり。此の心得之れ無き人多く御座候」
  12. 「長者に向て其の年を尋ぬべからず候。是れ無礼なりと『礼記』にも見え候。世間に此の事を洗と心得申さず候」
  13. 「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初にも先に立つべからず候」

(2)学問

  1. 「人は八歳より学に入るを定法として、夫より年月を追て、人の人たる道を習ひ覚ゆる事にて候」
  2. 「一生学問をして小人となる人多し。無用の骨折と云ふべく候」
  3. 「不学にてもよき人あり、其の人博学なれば愈よく候」
  4. 「博学にてもあしき人あり、其の人文盲なればやはりあしく候」

(3)商業活動

  1. 「商人の利は士の知行、農の作劯なり。皆義にて利に非らず候。只非分の高利を貪るを以て利欲とす。是は姦曲に落て義に背き候」
  2. 「町家は、利欲を肝要と心得候は、大なる誤りにて候」

「孝」と「忠」

親に対して真心を尽くすという「孝」と、主君に対して真心を尽くすという「忠」と。すなわち、親孝行と忠義の心とは、極めて重要な倫理と受け止められていた。「孝」は家庭内・血縁関係内における最も重要な徳目であり、「忠」は公的・社会的な場において最も重視される徳目だからである。懐徳堂でも、創立間もない頃の学舎の玄関には、「学問とは忠孝を尽し、職業を勤むる等の上に之有る事にて候」と記された壁書が掲示されていたという(詳細については、「懐徳堂の学則」参照)。初代学主三宅石庵が「学」とは「人の道」を学ぶことであると宣言したとおり、懐徳堂では、職業活動の前にまず、それを根底で支える「忠孝」という道徳の修得が必要であると考えられていたのである。

しかし、現実は、こうした理念よりは遙かに複雑である。なぜなら、「孝」と「忠」とを突きつめていくと、両者は厳しく対立し、人に二者択一を迫るような場合も生ずるからである。たとえば、「徴兵」という場面を想定してみよう。徴兵に応じて国のために戦うということと、親や家族を大事にするということとは両立しないとも言える。あるいは「親の犯罪」という場面を想定してみよう。親の罪を告発して法秩序に従うのか、親のために罪を隠すのか、子は、選択を迫られるであろう。また現代人が会社と家庭の間で苦悩するのも、これと似た現象かもしれない。

したがって、「孝」「忠」それぞれを違和感なく受け入れていた者も、この二つが厳しく対立するような局面に立たされたとき、初めて倫理道徳の深淵を覗き見ることになるのである。また、「孝」と「忠」との意義を信じ、平素真面目に実践している者ほど、その戸惑いは大きいと言える。

しかし、この両者を比較して、人間の本性により近いのはどちらの徳目であろうか。知性よりも心情として素直に了解できるのはどちらであろうか。それは、やはり「孝」であろう。親子の関係は、いわば人情に基づく自然な関係であり、君臣の関係は、社会の中で後天的に設定されたいわば人為的・契約的な関係だからである。

そこで、古代中国においても、「忠」の意義と正当性は「孝」との関係で説明されることとなった。

「孝」について専論する儒家の経典は『孝経』である。これは、孔子が門人の曾子との問答を通して、「孝」が徳の根本であることを説いた書である。そこで説かれる「孝」とは、具体的には、父母から授けられた体(身体髪膚)を大切にすることを通して父母を敬愛し、また、宗族の源流である祖先の祭祀に務めることを意味する。

また、『孝経』は、孝が政治や教育の根源であるとも説く。そこで、孝とは、親に仕えることに始まり、君に仕えることを半ばとし、社会で身を立てることをもって終わると定義する(開宗明義章)。ここには、父母に対する敬愛の情を、そのまま君主に対する忠誠心に移行させようとする意識が認められる。別の箇所で『孝経』は、父に仕えるようにして君に仕えよ、「孝」の心でもって君にお仕えすれば、それが「忠」になると説いている(士章)。

こうした「孝」と「忠」の理解は、氏族の連合体によって構成されていた古代日本社会にも適合し、『孝経』は『論語』とともに、長く重視されていくこととなった。また、戦前戦中の日本において、こうした「忠孝」観念は、国家主義的体制のもとで、極めて重視されるに至った。

懐徳堂では、中井甃庵の『五孝子伝』、竹山の『蒙養篇』とも、国家主義的ではない、本来の「孝」の重要性を説いている。右の『蒙養篇』では、冒頭の第1条に、「父母によくお仕えするのを孝といい、年長者によくお仕えするのを悌と名付ける」と「孝」「悌」をまず第一の徳目として掲げている。そして第2条で、「孝悌の二字は日夜心がけて、一生忘れてはならない」とそれを強調している。また、第16条では、「孝」について具体的に、「親に仕えるというのは、(口先だけではなく)手足の働きを第一とすべきである。子は親の恩愛に甘えて孝行を怠りやすい。よくよく心がけねばならない」、第30条では「一つのことを行うにも、それが親の心に叶うかどうかをよくよく考えねばならない」と説いている。

このように、懐徳堂では「孝」が重要な理念として掲げられていたことが分かる。「孝」こそはすべての道徳の根源であり、「人の道」の基礎と考えられたのである。

しかし、このことは同時に、元禄・享保期に花開いた新たな文化のかげで、そうした理念が必ずしも現実に反映されなくなっていたことをも示唆している。新しい豊かな文化が形成されるということは、それまでの秩序が大きく揺らぐことをも意味するからである。そうした時代にあって、懐徳堂が求めたのは、まさに伝統的な「人の道」、「孝」の思想であった。

「義」と「利」

商業とは、「利」を追求する営みである。ただ、「利」の追求は、人間の欲望を大きな原動力としており、しかも、その欲望にはしばしば歯止めが利かなくなる。また、天下の「利」の総量が一定であるとすれば、「利」の追求は、結果的に他者の利益を奪う行為ともなる。

こうしたことから、伝統的な儒教の倫理観では、「利」はしばしば「義」と対照されつつ批判されてきた。つまり、人は利益ではなく、正義を追求すべしという倫理観である。

しかし、春秋戦国時代、この儒家と対立した墨家は、これとは異なる「義」「利」の論を展開した。つまり、「義」の追求とは、個人がそう思う正義を身勝手に追い求めることではない。世界の人々に共有されるべき正義の追求でなければならない。このような義を追求することは、そのまま世界の利益につながる。

このように墨家は、天下万人の「義」「利」を考えるなら、二つは決して矛盾することはないと説いた。侵略戦争を阻止するために身を挺して弱小国の防衛戦争に従事した墨家集団ならではの考え方である。

また、その後の中国の歴史においても、実際には、真摯に努力を重ねた士大夫が科挙に合格し、栄達と富裕をきわめるというのは理想の姿とされた。正義の追求と利益の受容とは、本当に矛盾するものなのであろうか。

こうした疑問に対して、懐徳堂学派の答えは明快である。すでに、初代学主三宅石庵は、次のように講じていた。すなわち、「仁義を実践する者は、自ら利益を追求するわけではないが、自然と利がついてまわるのである。……「利」は勝手のよいものであって、そのこと自体に差し障りがあるわけではない。しかし、利益を追求することをあまりに好むようになると、そこに弊害が生ずるのである」と(「懐徳堂の講義」参照)。

ここには、「利」と「義」についての柔軟な態度が見られる。仁義を正しく実践する者には、その結果として「利」が自然についてまわるというのである。「利」それ自体には何も害はなく、それを運用する者の過度の欲望が弊害を生むのだ、と論ずる。

同じことは、中井竹山の『蒙養篇』についても言える。その第25条に、「商人が商業活動によって得る利益は、武士の知行(土地支配による利益)、農民の作徳(年貢を納めた後に残る純益)に相当する。それらはみな商・士・農それぞれの「義」であり「利」ではない。ただし、分不相応の高い利益を貪るような気持ちを「利欲」といい、これはよこしまな誤った道に落ちるものであり、義に背く行為である」と述べる。また、第26条でも「町家(商家)は利欲が肝心と考えるのは、大いなる誤りである」と説く。

このように竹山は、商業活動を、商人の「義」と論じ、それ自体は決して非難されるべきものではないと断言した。ここには、「義」と「利」についての柔軟な思考がうかがえる。これも、大坂の町に生まれた懐徳堂の大きな特色の一つである。

2.「批判」─『非物篇』と『非徴』─

「鵺」学問

初代学主の三宅石庵は、一つの学派に固執することなく、諸学の良い点を何でも積極的に取り入れた。その折衷的な独特の学風は「(ぬえ)学」と批判されることもあった。鵺とは、伝説上の怪獣の名で、頭は猿、足は虎、尾は蛇に似ているといわれる。

しかし、こうした態度は、懐徳堂が幕府の官許を得ながらも、基本的には大坂の商人に支えられた自由闊達な精神を持つ学校であったことと無縁ではない。また、そこに流れる精神は、江戸幕府の建てた学問所「昌平黌(しょうへいこう)」の性格と対比するとき、一層明瞭となる。

昌平黌は、幕臣・藩士やその子弟だけに入学を許し、正統の朱子学を教授した。これに対して、懐徳堂では、たとえ学費が満足に納入できなても、また、教科書を持たぬものにも聴講を許し、商用による途中退出もできた(「懐徳堂の学則」参照)。講義の内容も、儒教の精神を中心にしながらも、決して硬直した倫理観を押しつけるのではなく、柔軟な道徳を説いていた(前項の「1.倫理」参照)。

こうした自由な気風から、当初は、商人に対する(しつけ)教育という側面も重視されたようであるが、やがてそこから高度の学問研究が生み出されるに至った。

五井蘭洲『非物篇』

『非物篇』二代目学主の中井甃庵とともに、初期懐徳堂を支えた五井蘭洲(ごいらんしゅう)(元禄10年[1697]~宝暦12年[1762])は、『非物篇』を著した。

これは、荻生徂徠(1666~1728)の『論語徴』を激烈に批判する書である。荻生徂徠は柳沢吉保に仕え、将軍綱吉にも講義を行った江戸の高名な儒者である。その学問は、古文辞学(こぶんじがく)とよばれ、観念的な朱子学を排し、孔子の思想を古典の古訓の解釈から得ようとするもので、旧来の朱子学や、伊藤仁斎(いとうじんさい)古義学(こぎがく)派と対立するものであった。著書に『弁道』『弁名』『論語徴』などがあるが、特に『論語徴』は、中国の清でも紹介された徂徠の代表作である。

この『論語徴』に対して、五井蘭洲はどのような批判を行っているのであろうか。その巻頭の言を見てみよう((1)~(3)は便宜上の区分番号)。

(1)非に曰く、嗚呼徂徠門を杜して書を読み、世と相渉らず、時に詰り問う者有るや、輒ち曰く、「習い異にし対を置かず。是れ我が家法」と。是を以て栄邁余り有りと雖も、亦た終に独学固陋に免れず。

(2)徂来(徠)是の書を撰じ、即ち言う「皆諸を古言に徴す」と。故に命づけて『論語徴』と曰う。然るに書中半ば諸を胸臆に取り、以て説を為す。我未だ其の「徴」為るを見ざるなり。且つ彼初め皇侃の『義疏』を睹ず。晩年『徴』既に成り、偶々得て之を読む。然るに業を卒うる能わずして物故す。

(3)故に朱子皇説に同じき者を以て朱説と為し、誤駁して道学の見と為す者多し。笑うべきかな。

まず、(1)で、徂徠の学は「独学固陋(ころう)」であると批判する。徂徠は門を閉ざして本を読み、世間との関わりを持たなかった。詰問する者があってもつっぱねるばかり。いかに徂徠が出世したとしてもそれは独りよがりの偏屈なものである、と述べる。これは徂徠の基本的な人間性や勉学の方法に対する批判である。

次に、蘭洲は(2)で、徂徠は「古言に徴し」て実証的に解釈したと言っているが、実は多くの主観的解釈を混入させている、と『論語徴』の解釈全般についても批判する。これは、「徴」という看板とその実態とにずれがあるとの痛烈な指摘である。

さらに、蘭洲は(3)で、徂徠は梁の皇侃(おうがん)の『論語義疏』を見ておらず、皇侃・朱子共通の解釈を朱子独自の説として批判するという大きな誤りを犯していると述べる。『論語』注釈の歴史は古く、代表的な注釈としては、三国魏の何晏(かあん)の『論語集解』(古注)、梁の皇侃の『論語義疏』(古注系)、南宋の朱子の『論語集注』(新注)がある。このうち、徂徠が主として批判するのは、朱子学の解釈、すなわち『論語集注』である。しかし、徂徠は、『集解』『義疏』『集注』の弁別を充分に行うことなく、皇侃と朱子の解釈を混同したまま朱子批判を行っていると、『論語』注釈史の立場からも厳しく批判を加えたのである。

なお、「物」とは、徂徠のことを指す。徂徠が物部氏の流れを汲む者として中国風に「物茂卿」と称していたことによる。「非物」とは、その「物」氏(徂徠)を「非」難するという意味である。

こうした先鋭な批判が生み出されたことからも、懐徳堂は、単なる町人教育・躾教育の場ではなく、高度な学問教育・知識交流の場でもあったことが分かる。

中井竹山『非徴』

『非徴』この五井蘭洲『非物篇』を後に校訂して刊行したのが、中井竹山(なかいちくざん)(享保15年[1730]~享和4年[1804])である。竹山は、二代目学主中井甃庵(なかいしゅうあん)の長男で、名は積善。後に弟の履軒(りけん)とともに懐徳堂の黄金期を築いた。その竹山にも、『非徴』という『論語徴』批判の書がある。これは、朱子学の立場から『論語徴』を論駁するもので、五井蘭洲の『非物篇』とともに、天明4年(1784)に懐徳堂蔵版で刊行された。

その冒頭部分を見てみよう。

非に曰く、吁嗟徂来(徠)物氏、学術の病、其の症、自ら大いに名を奸むるに在り。其の因、仁斎伊藤氏を圧倒せんと欲するに在り。而して其の禍、程朱諸公(程子や朱子などの宋学者たちが)往聖(かつての聖人たち)に継ぎ来学(後世の学)を開くの功を廃絶し、政事を害し、風俗を敗り、天下の青衿の士(学生)に深く妖妄邪誕の痼を結ばしむるに至りて後已む。哀れむべきかな。

ここで竹山はまず、物氏(徂徠)の学問の弊害が「名」をあげることにつとめるという尊大な態度にあることを指摘する。その根本的な原因は、徂徠が純粋な学術的態度からではなく、伊藤仁斎への対抗意識から『論語』注釈を行ったことにあると説く。

そうした態度は、程子や朱子などの宋学者たちが孔子・孟子以来の聖人たちの教えを継承し、次の時代の学問を開いたという、偉大な功績を無にするものである。また、時の政事や風俗を乱し、志に燃えた若き学生たちに「妖妄邪誕の痼」(あやしく乱れたなおりにくい病)を植えつけるものである、と厳しく批判する。

この『非徴』も、『非物篇』同様、「吁嗟(ああ)」という嘆きの言葉に始まり、痛烈な非難の言が連続する。徂徠の学を、『非物篇』が「笑うべきかな」と言えば、『非徴』は「哀れむべきかな」と酷評する。

この両書には、権威に屈することのない強烈な批判精神が見られると言えよう。もっとも徂徠批判については、朱子学の正統化を意図した寛政異学の禁(寛政二年[1790])という時代の潮流も関係があろう。しかし、こうした批判精神は、この両書、この時期にのみ突出した現象ではなく、竹山の弟の中井履軒にも、また、それに続く学者たちにも貫かれている。

このように「批判」は、懐徳堂の基本精神の一つであった。また、理念よりも現実を重んじ、口先だけの政治よりも実生活に即した経済を尊ぶという、大坂の風土、商人の気質がその背景にあるとすれば、それは、懐徳堂の精神であるとともに、大坂の町そのものの特色でもあった。