漢籍目録と分類の歴史
ここでは、「漢籍分類解説」をよりよく理解するための基礎知識として、漢籍の目録と分類の歴史について概説する。
漢籍は、通常の図書分類(日本十進分類)とは異なり、伝統的な独特の方法によって分類される。
その分類とは、漢籍を「経」「史」「子」「集」の四つに分かつ「四部分類」であり、それは、漢代の七(または六)分類を経て、六朝期に成立し、唐代に完成した。以後、漢籍は、中国・日本を問わず、この四部分類によるのが通常である。大阪大学附属図書館の漢籍、および懐徳堂文庫所収漢籍も、もちろんこの分類法によって配架されている。
なお、以下の内容は、全学共通教育科目「中国哲学基礎」(湯浅邦弘教授、平成12年度5月18日)の講義内容に対応している。
文字文化の開花
中国は、早熟な文字文化の国である。春秋戦国時代(前5世紀~前3世紀)には、多くの思想家が経世の理想を抱き、諸国を遊説しながら互いに議論を戦わせるという、いわゆる「諸子百家」の時代を迎えた。かれらの言説は、思想家自身によって、あるいは、弟子門人たちによって著述編纂され、膨大な数の文献が流布していった。
例えば、中国兵法の開祖孫武の著『孫子』は、家ごとに所蔵されていたと言われ、また、恵施という思想家は常に車五台分の書籍を引きながら遊説に出かけたと伝えられる。
こうした豊かな文字文化に衝撃を与えたのは、秦の始皇帝による「焚書坑儒」であった。厳格な法治と富国強兵策により中国を統一した始皇帝は、思想統制の一環として、指定書以外の書物を焼き尽くし(焚書)、無駄口をたたくだけで役に立たない学者を穴埋めにして殺した(坑儒)。さらに、この秦帝国がわずか十五年で滅び行く際、秦の都咸陽に入った項羽は、宮殿をことごとく焼き払った。始皇帝の焚書坑儒や項羽の焼き討ちにより、中国世界は多くの貴重な書籍を失うこととなった。
図書整理の開始
しかし、こうした混乱を経て前漢時代(前206~後8)に入ると、資料の整理・収集の必要性が強く求められるようになった。そこに現れたのが、前漢末の学者劉向(前77~前6、本名は更生、字は子政)である。劉向は、成帝(前23~後7)の時代、宮中の蔵書の校訂や目録の作成などを行い、中国目録学の始祖といわれる。
その具体的な作業は、劉向が経伝(儒家の経典やその注釈)・諸子・詩賦の書を、任宏が兵書を、尹咸が数術(占卜)書を、李柱国が方技(医薬)書を担当し、(1)宮中所蔵の書を基に、内外の異本(伝来の異なるテキスト)を校合(対照して検討)する、(2)簡牘の乱れを正し、篇目を定める(それまでの書籍は竹簡・木牘に記されていたため、しばしばそれを綴じる際に乱れが生じた。これを錯簡という。また、書名・篇名・巻数などの表記も明確に意識されていなかった)、(3)誤字・脱字を正す、(4)書名を定める、(5)竹簡に書写して定本を作る、などの作業を進めたとされる。
目録学の創始
この作業を統括した劉向は、各書物の解題を『別録』という書にまとめた。また、その子の劉〓(?~23)は、父の仕事を受け継ぎ、『七略』という図書目録を完成させた。記録に残る最古の図書目録である。
残念ながら、この二つの書は現存せず、その内容の詳細を知ることはできない。ところが、後漢時代(25~220)に『漢書』が編纂された際、その図書目録部分である「芸文志」が劉〓の『七略』に基づいて編纂されたため、この「芸文志」を通じて、劉向・劉〓父子の業績を推測することができる。
『漢書』芸文志の分類
『漢書』芸文志は、劉〓の『七略』を継承し、書籍の分類・整理を行い、当時存在した書籍の名をその分類に沿って列挙した。「芸文志」は現存する最古の図書目録であり、当時の学術の全体像を明らかにするきわめて貴重な資料である。
その「芸文志」は、書籍を、六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略の六つに分類する(この他、輯略という部分があり、これを併せた七部が劉〓の『七略』に対応したと思われるが、輯略の部分は『漢書』芸文志には直接現れていない)。
各部内は、さらに細目によって分類される。例えば、儒家の経典やその注釈の部である「六芸略」は易・書・詩・礼・楽・春秋・論語・孝経・小学に細分され、諸子百家の書の部である「諸子略」は儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家、小説家に細分される、といった具合である。
「芸文志」にその名を記載された書籍の総数は38種、596家、13,269巻に及んだ。
魏晋の目録と分類
220年、後漢の滅亡によって、中国はふたたび分裂の時代に入る。いわゆる魏晋南北朝(三国六朝)時代である。
この時代、まず魏の鄭黙(213~280)が宮中の蔵書に基づいて、『中経』(佚書)という図書目録を著し、また、この『中経』を基に、荀勗(?~289)が『(中経)新簿』を著した。
この『(中経)新簿』は甲乙丙丁の四部によって書籍を大別する。「甲」部は六芸・小学など儒家の経典とそれを読むための字書類、「乙」部は古諸子家・近世諸子家・兵書・兵家・術数などの諸子類、「丙」部は史記・旧事・皇覧簿・雑事などの史書類、「丁」部は詩賦・図讃・汲冢書などの詩文集類であった。その特色は、『史記』・『漢書』以来増加してきた歴史書に配慮して、初めて史書を丙部に独立させ、全体を四部に分類したという点である。採録された書籍の総数は29,945巻。以後、この四部分類法が基本的に踏襲されていくこととなる。
李充の四部分類
また、李充(323~388)は『晋元帝書目』を著した。この目録は、荀勗の『新簿』に見られた甲乙丙丁の四部分類を継承しながらも、乙部に史書、丙部に諸子を配し、その順序を逆転させた。すなわち、甲=経書、乙=史書、丙=諸子、丁=詩文集、という配列である。史書は時代を経るごとに増加する宿命にあり、その史書に圧迫されて、諸子の書が三番目に追いやられた形となった。
七分類と四分類
このように、六朝期では、四部分類が主流となりつつあったが、王倹(452~489)の『七志』は、漢の劉〓『七略』の体裁を継承し、七部構成(道教・仏教の書を付録として加え、実際には九部)を採った。時代に逆行した感のある目録であるが、王倹は他に『宋元嘉八年秘閣四部目録』も作成しており、その真意は未詳である。なお、王倹の『七志』は、それまでの蔵書整理や目録作成が、ほとんど国家的事業であったのに対して、初の私撰(私家)目録であったという点にも特色が見られる。
さらに、阮孝緒(479~536)は、この王倹『七志』に見える七分類と六朝期に主流となっていた四部分類とを折衷して、『七録』を著した。すなわち、大枠としては、四部分類を採用しつつ、その細目については、劉〓の『七略』や『漢書』芸文志の精神を活かそうとしたのである。この目録は、内外篇七録55部、6,288種、44,526種を著録する。
『隋書』経籍志の分類
南北朝の分裂時代に終止符を打ったのは、隋(581~618)であった。分裂時代の混乱により、隋初の蔵書数は激減していたが、隋は書籍の収集に努めて三万巻余を所蔵するに至ったという。この隋の時代の書籍状況を示すのが、『隋書』経籍志である。唐代(618~907)に編纂された『隋書』は、南北朝後期から隋に至る学術世界の状況を知る上で重要な資料である。特に「経籍志」は、正史に付された図書目録としては、『漢書』芸文志に次ぐものであった。
この『隋書』経籍志は、李充『晋元帝書目』に見られる分類と序列を継承して、書籍を四部に分類し、それを「経」・「史」・「子」・「集」と正式に命名した。四部内部の細目の内訳や、道教・仏教の書を付録する点などは、阮孝緒の『七録』に類似しており、「経籍志」が『七録』の影響も受けていることが分かる。「経籍志」の「経部」は627部、5,371巻、「史部」は817部、13,264巻、「子部」は853部、6,437巻、「集部」は554部、6,622巻。計2,851部、31,694巻を著録した。
四部分類の伝統
この経史子集の四部分類は、以後の中国世界において、図書目録の規範とされた。また、わが国においても、平安朝初期の漢籍目録である藤原佐世『日本国見在書目録』(891頃)は、この『隋書』経籍志を踏襲して、全体を四部に分類し、当時日本に伝わっていた漢籍157部、16,790巻を記録している。
このような経緯を経て、漢籍は今も、原則として経史子集の四部分類によって配架されるのである。但し、その細目については、各々の図書館の実状や所蔵漢籍の状況などにより多少の違いが生じている。また、宋代以降、木版印刷の普及にともなって、従来の四部分類にはなじまない総合的書物(複数の部にまたがる、あるいは四部をすべて包括するような書)が出現し、それらに配慮して、特に「叢書」の部という五番目の部を立てる場合もある。さらに、新中国に入ってから、これら漢籍に関する研究書などを、漢籍ではないが漢籍に準ずる書として、特に「新学部」という分類のもとに収録する場合もある。
大阪大学附属図書館では、漢籍の分類に際して、K1~K5の記号を使用し、1~5を各々「経」「史」「子」「集」「叢」に対応させている。また、懐徳堂文庫所収漢籍については、その総目録『懐徳堂文庫図書目録』において、漢籍を「経」「史」「子」「集」「叢」に五分類し、さらに日本十進分類に基づく「新学部」を「漢籍の部」に付録している。
平成13年夏に、付属図書館新館に総合移転された懐徳堂文庫の配架状況については「懐徳堂文庫の総合移転」参照。
【参考文献】
(中国)
- 姚名達『中国目録学史』
- 余嘉錫『目録学発微』
- 李万健『中国著名目録学家伝略』
- 顧実『漢書芸文志講疏』
(日本)
- 内藤湖南『支那目録学史』
- 清水茂『中国目録学』
- 鈴木由次郎『漢書芸文志』
- 興善宏・川合康三『隋書経籍志詳攷』