懐徳堂の学則

懐徳堂では、どのような教育が行われていたのであろうか。幸いにも、それを知るためのいくつかの手がかりが存在する。教育制度を含む懐徳堂全般の取り決めについては「定約」が、学舎や学寮における諸規定については「定書」が残されている。また、享保9年(1724)から天明3年(1783)に至る学内の主要な出来事を年代順に記した『懐徳堂内事記』、大坂奉行所や町内との折衝を記した『懐徳堂外事記』なども重要な資料である。さらに、懐徳堂内には、門・柱・壁など至る所に額や聯が掲げられていて、そこにも様々な教訓が記されていたという(具体例については、「懐徳堂と漢語」の項参照)。

ここでは、これらを参考としながら、特に、「定約」「定書」として明確に規定された諸規定を中心に、懐徳堂の教育の特色について概説してみよう。

なお、原文の引用に際しては、漢字を現行字体に改め、送りがなを補い、漢文表記の部分を書き下すなど、表記の一部に変更を加えている。また、条数を便宜上i.ii.の記号によって示す。

「壁書」全三条

創建時の懐徳堂の玄関に懸かっていたという壁書で三条からなる。『懐徳堂内事記』享保11年(1726)10月の項に採録されており、末尾に「午十月学問所行司」の署名がある。i.では、学問の目的について、職業活動の前提としての「忠孝」の重要性を説き、懐徳堂の講義内容も、その主旨を説き進めるのが第一であるから、書物を持たない人も聴講して良いと規定する。また、やむを得ぬ用事があれば、講義の途中でも退出して良いと記す。ii.では、席次について、武家方は上座と一応規定するが、但し書きとして、講義開始後に出席した場合は、武家方と町人との区別はないとする。iii.では、入学について、中井忠蔵(甃庵)までその旨を断ること。但し、甃庵が外出中は、支配人まで申し出ることとしている。

  1. 学問とは忠孝を尽くし職業を勤むる等の上に之有るの事にて候う。講釈も唯だ右の趣を説きすすむる義第一に候えば、書物持たざる人も聴聞くるしかるまじく候う事。
    但し、叶わざる用事出来候わば、講釈半ばにて退出之有るべく候う。
  2. 武家方は上座と為すべく候う事。
    但し、講釈始まり候う後出席候わば、其の差別之有るまじく候う。
  3. 始めて出席の方は、中井忠蔵迄其の断り之有るべく候う事。
    但し、忠蔵他行の節は、支配人新助迄案内之有るべく候う。

「開講と講師」「謝儀」など数条

『懐徳堂内事記』享保11年(1726)10月の項には懐徳堂の教育について貴重な記録が残されている。i.は、享保11年(1726)10月5日に、三宅石庵による『論語』の講義が日講として開始されたこと、その他の講師として、並河五一郎、井上左平、五井蘭洲が出講したことが記される。ii.では、日講で読まれたテキストが「四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)」『書経』『詩経』『春秋胡伝(『春秋』に対する宋の胡安国の注)』『近思録』などであったことが分かる。iii.は、休日の規定で、毎月「1日、8日、15日、25日」が休み。iv.v.は、謝礼の規定で、各々分限に応じて行えばよいが、それでは、自然と割高になり、貧しい者が出席しづらくなるであろうから、次のように申し合わせるとして、五節ごとに「銀一匁」または「二匁」とし、講師方への個別の謝礼は無用とすること、また、礼をつくし気持ちを表して出席するのが第一であるから、貧しい者は右の規定にとらわれず、「紙一折」または「筆一対」でも良いこと、とする。

  1. 同年十月五日、老先生(三宅石庵)論語開講。是より日講相始まり、講師は並河五一郎殿、井上左平殿、蘭洲五井先生三人にて、翌十二年丁未四月、五一郎殿東帰、同年暮迄は老先生も日講御手伝ひ之有り。……
  2. 日講の書は、四書、書経、詩経、春秋胡伝、小学、近思録等なり。
  3. 休日は、朔日、八日、十五日、廿五日。
  4. 謝礼の定書控へ
    礼式は各分限相応に相務め候事無論に候へ共、人々心任せに仕候へば、自然と事多かさ高にも成り行き候て、以来貧学者等は出席も仕難き様に相成るべく候はんか。左候ては本意に背き候事故、今度申し合わせ相定め候処、左の通りに御座候。
  5. 日講の謝儀は、五節供前勝手次第、銀壹匁か又は貳匁づつ、支配人新助方迄御指出し成らるべく候事。
    右指出さるる候祝儀、年行司支配人と立合ひ、其の惣数を以て、老師並に学問所預り及び助講の衆中等へ分配遂ぐべく披露候。尤も此の壹封の外、面々へ祝儀には及ばす候。只一応拝謝の印だに之有り候へば、礼ととのひ情達し出席仕よく候義第一に候へば、貧学の人は其の時の事体を以て、右定め候品をも相減じ、紙壹折又は筆壹対等を礼式と相致して然るべく候。又力之有る人たり共、右定めの品より相増し候事義は然るべからず候。此の外の日講聴聞に付き一切費用之無く候間、此の段取次の衆より近来出座の方に御申し通し成らるべく候。

「播州大坂尼崎町学問所定約」全七条

三宅石庵の高弟の中村良斎の手になる「定約」。現在は散逸して伝わらない。『懐徳堂内事記』享保20年(1735)の項に採録されており、『懐徳』第12号付録の「懐徳堂旧記」にも翻刻されている。奥付に「享保廿年(1735)乙卯七月」。「中井忠蔵(甃庵)」ほか10名および「諸同士中」の連名が見える。内容は、i.学問所創立と免許、ii.講談の課目、iii.学主の招聘、iv.学主世襲の禁、v.同志の会合、vi.少年の教導などについての規定である。

特にii.では、懐徳堂の講師陣に対して、懈怠なく講談を行い、講義の内容は「四書五経」を中心とし、それ以外の雑事を講じてはならない、と規定している。また、vi.は、親から頼まれた子供の教導、および学問所への寄宿について記しており、懐徳堂が子供の教育、およびその「寄宿」を認めていたことが分かる。

  1. 学問所講談懈怠無く相勤め申すべく候う。講じ申すべき事は、四書五経、其の外道義の書講談致し、他の雑事講し候う儀一切無用に候う事。
  2. 読書手習い其の外子供学び候う事を、親たる人頼み候えば、其の時の学主へ相尋ね、許容の上教導致すべく候う。学問所へ寄宿致させたき旨候えば、飯料の定、是れ又賄い方帳面に記し置き候う事。

「宝暦八年(1758)定約附記」全五条

上記「定約」に漏れている事柄や実情に合わなくなっている点を、三宅春楼が学主就任に際して書き加えたもの。「三宅才二郎(春楼)謹書」の署名に続き、五井藤九郎(蘭洲)中井善太(竹山)、徳二(履軒)など三十三名の連署が見える。内容は、i.すでに規定されていた学主世襲の禁を解く、ii.学主と預人との関係、iii.学主預人の候補の見立て、iv.異学者を招かず、v.医書詩文集を講ずるを許す、などについての規定である。

このうち、v.は、懐徳堂で講ずべき文献について、先の『懐徳堂内事記』享保11年(1726)10月の項と同じく、「四書五経道義の書のみ」と規定する。但し、余力があれば「詩賦文章」あるいは「医術」を、関心のある人に内々で講じたり、会読したり、あるいはまた、詩や文章の会などをもうけることは例外として認めている。そして、三宅石庵(万年)も、内々に医書や詩集などを講じたこともあるとしている。享保11年(1726)の規定に比べ、教授内容がやや柔軟になっていることが分かる。

  1. 四書五経道義の書のみ講談致し、他の雑書講じ候う事一切無用と申し候えども、余力に詩賦文章或は医術をも、心懸け候う人へ内証にて講じ聞かせ、或は会読いたし、或は詩会文会等致し候う事は、格別の義と存じ候。万年も内証にて医書詩集等講じ聞かせ候う事も之有り候。但だ表向きの講談に致す間敷しき事は、定約の通り勿論と為すべく候う。

「宝暦八年(1758)定書」全二条

講堂に掲示された定書。『懐徳堂内事記』宝暦八年(1758)の項に採録されている。謝礼についての二条を記す。i.は、五節ごとの謝礼について、玄関の帳面に記帳することとしている。但し、旧識別懇の方や読書・手跡などの稽古の方は例外としている。また、謝礼は、礼が調い情が通じて出席しやすくなるというのが第一であるから、貧しい者は紙一折、筆一対でも良いとしている。この点は、『懐徳堂内事記』享保11年(1726)10月の項に記載された規定と同じである。ii.では、講義の受講生ではなく、読書や習字の稽古のために通っている人に対し、右の規定を適用せず、特別に頼まれた方のみ謝礼をすることと記す。また、事故の折には、誰でも世話をするが、それに対する格別の謝礼については、一切無用であるとする。

  1. 講談・聴衆、五節句の礼、務められ候方は、玄関に於て帳面に記し置かれ、学主・助講預りへ銘々仰せられ通ひ候には及ず候。尤も謝儀も右の趣に有るべ候事。
    但し旧識別懇の方、読書・手跡等稽古の方は、格別と為すべく候う、惣して謝儀は、礼調ひ情達し出席致しよき為第一にて候へば、貧学の方は、紙一折・筆一対等を以て礼式とせられ候も苦しからず候。
  2. 読書・手跡等稽古のため通われ候方は、学主にても預りにても、相頼まれ候方のみの謝儀差し出さるべく候事。
    但し故障の節は誰にても世話を致すべく候へ共、別段に謝儀等の心遣、一切無用と為すべく候。

「宝暦八年(1758)定書」全三条

懐徳堂に寄宿していた学生を対象として学寮に掲示された定書。『懐徳堂内事記』宝暦八年(1758)の項に採録されている。i.は、懐徳堂の書生間の交わりについて、貴賤貧富を問わず同輩とすべきこととする。但し、大人と子供の区別はあり、また、座席については、新旧(新参か古参か)、長幼、学問の進度などを指標として、互いに譲り合うこととしている。ii.は、寄宿生について、私事による外出は認めないとする。但し、やむを得ぬ用事やその宿先(勤務先・実家など)から断りがあった場合は例外とする。iii.は、同じく寄宿生について、その謝礼は15歳から納めることと規定する。

  1. 書生の交りは、貴賤貧富を論ぜす、同輩と為すべき事
    但し、大人小子の辨は、之有るべく候。座席等は、新旧長幼、学術の浅深を以て 面々推譲致さるべく候。
  2. 寄宿の書生、私の他出一切無用為るべき事。
    但し、拠る無きの要用、或は其の宿先より断り之有る節は、格別と為すべく候。
  3. 寄宿の書生、講筵の謝儀は、十五歳より差し出さるべき事。
    但し、小児迄も講筵列座は勿論の義に候。

宝暦八年(1758)定書

「安永六年(1777)正月定書」一条

「安永六年丁酉正月 学校行司」の署名が見える。冒頭の「三八」は貼紙の上に記されており、訂正された可能性がある。受講の謝礼について、先の規定を補足する内容。

  1. 三八夜講、二七朝講、定式講筵の謝儀、近来混雑に相成り候。已に来たる者、先規の通り別段に講堂へ御納め成らるべく候。尤も御出席の印を表され候うのみにて候。新来の御衆中、普く御承知のため斯くの如く候う。以上。

安永六年(1777)正月定書

「安永七年(1778年)六月定書」全八条

懐徳堂内に寄宿していた書生の生活態度について、中井竹山が定めた最も代表的な規定である。『懐徳』11号(昭和8年刊)の中井木菟麻呂「懐徳堂遺物寄進の記」中に「懐徳堂壁署三面」の一つとして翻刻されている。i.は、書生の面々互いに申し合わせて行儀を守り、かりそめにも箕踞(ききょ)(足を投げ出して座る)・偃臥(えんが)(ごろんとよこになる)などしてはならないとする。ii.は、学問に関する談義や典雅な話題の他は、無益の雑談を慎み、場所柄をわきまえ、卑俗な談義は堅く停止と規定する。iii.は病気でもないのに、みだりに昼寝・宵寝をしてはならないとする。iv.は学業の余暇には、習字・算術・試作・訳文など、各々に応じて心懸けることを説く。v.は、休日やそのほかの余暇には、和訳の軍書や近代の記録物などを心懸けてよむべきこととする。vi.は囲碁や将棋などは社交のため、また気分転換のためならば差し支えはないが、休日以外は日中そのような雑芸に関わってはならないとする。vii.は互いに行き届かないことについては、同輩が互いに心をつかい、切磋することとするが、それが行き過ぎてトラブルになった場合には、viii.で、早々にその旨を申し出ることとしている。総じて、学校側からの高圧的な規定と言うよりは、学生相互の自律・自助を勧める内容となっている。また、寄宿制の生活態度が極めて厳格に規定されていたことも分かるが、一方で、そうした規定を必要とする実状にも思いを致すべきであろうか。

  1. 書生の面々互に申し合せ行儀正敷相い守り、仮初にも箕踞・偃臥等致す間布き事。
  2. 学談・雅談の外、無益の雑談相い慎み、場所柄、不相応の俗談、堅く停止と為すべき事。
  3. 当病持病等之子細も無之分昼寝宵寝堅可為無用事
  4. 本業出精の暇には、手跡・算術・詩作・訳文等、銘々の分相応に心懸け候て、間断之れ有る間布き事。
  5. 休日其の外閑暇の節に、和訳の軍書并に近代の記録物等心懸け読み申すべき事。
  6. 碁象棋謡等は世の交り并に学業退屈の気を転じ候為に兼ねて差免じ之有り候へども、休日の外は昼迄の内右様の雑芸に懸り候、無用と為すべく候事。
  7. 銘々行届き申さず候事は同輩の内より互に心を添へ切磋有るべきの事。
  8. 人の切磋を受け、却って立腹など致し候はば、傍人より早々その段、申し出るべき事。

安永七年(1778年)六月定書