懐徳堂の講義

三宅石庵『萬年先生論孟首章講義』

『萬年先生論孟首章講義』冒頭部 『論語』の解説

懐徳堂が大坂の豪商五同志によって設立されてから二年後の享保11(1726)年、懐徳堂は幕府から官許を得、大坂学問所として公認された。それを祝う記念講演会において、懐徳堂初代学主の三宅石庵(みやけせきあん)(萬年)が行った講義は、『萬年先生論孟首章講義』という筆記録に残されている。筆者は未詳。題名は、石庵が『論語』『孟子』各々の冒頭の一章について講じたことにちなむ。

「官許学問所懐徳堂講義 享保十一年丙午冬十月五日癸亥 萬年三宅先生講」と題し、「論語」や「孟子」の題名、各首章の意味、各々の字義などについて、噛んで含めるように解説していく。末尾には、「浪華学問所懐徳堂開講會徒」として当日の講演を聴講した78人の名前が列挙されており、その中には、後に懐徳堂助教として活躍し『非物篇』の著者として知られる五井藤九郎(蘭洲)や、富永善右衛門(芳春)らの名が見える。原本は大阪大学懐徳堂文庫所蔵、明治44(1911)年、懐徳堂記念会より刊行された『懐徳堂五種』の中に翻刻されている。

その冒頭部分は、以下の通りである。

論語

論語ト云フハ孔子ノ論シ玉フ御辞ヲ、弟子タチカラ又ソノ弟子ヘ云ヒ傳ヘ書キツタヘ、此書ニナルヲ論語ト名付

學而第一 学而ト云フハ発端ニ學而トアル語ヲ取リテ篇ノ名トセル也、古ハ竹ノ簡ニモノヲ書キツケホリタテテ、ナメシ革ニテアミテヲキタル故ニ、コトノ外カサダカナル故ニ、コノ書モ十巻廿篇ニシタルナリ。扨学ト云ヘルハ、何ヲ学ブモノゾ、道ヲ学ブコト也、何ヲカ道ト云フ、人ノ道也、人ニアラザレバ各別、人ト生レタルモノハ、人ノ道ヲ学ハ子バナラヌ也、鳥獣ナレバソノトホリ、人ナレバ人ノ道ヲ学ブハヅ也、故ニ道ト云フハ人ノ道、学トハソレヲ学ブコト也、コノ道ヲ分テ云ヘハ、君臣父子夫婦兄弟朋友ノ五ツノモノガ各道ニカナフヨリ別ノコトハナヒゾ、畢竟君ハ君タリ、臣ハ臣タリ、父ハ父タリ、子ハ子タリ、夫ハ夫タリ、婦は婦タリ、兄弟朋友ハ兄弟朋友タルガ、人ノ道也、ソレデ人ト云ハルルナリ、シカルニ気質ノ偏ガ有ツタリ、耳目ノ欲ガアリテ、フト我ガ生レツキテヲル道ヲトリ失フナリ、ソレヲ失ナハズ、生レノママナルガ聖人也、学トハソレヲマナブ也

「学」と「人の道」

ここでは、「論語」という書名について、孔子が「論」じた「辞(言葉)」を弟子たちからまたその弟子たちへと言い伝え書き伝えた書であるから「論語」と名付けた、と説いている。

次に、「学而」の語および「学」については、次のように説く。発端に「学而」という語があるのに因んで篇名とした。古代は、竹簡に書き付けてなめし革で編んだから、分量が多くなりがちであり、この『論語』も十巻二十篇に編成された。

「学」とは何を学ぶのか。「道」を学ぶのである。「道」とは何か。「人の道」である。人と生まれたからには「人の道」を学ばなければならない。「道」をさらに分けて言えば、「君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友」の五者が各々のしかるべき道に叶うことである。つまり、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父として、子は子として、各々の道をまっとうすることが「人の道」であり、それを実践できるから「人」と言われるのである。しかしながら、現実には、気質の偏りや耳目の欲望によって、人は自分の生まれつきの「道」を失うことがある。それを決して失わないのが「聖人」である。「学」とは、言い換えれば、この「聖人」の道を学ぶことである。

このように、三宅石庵は、受講生を前に「人の道」を学ぶことの重要性を力説した。懐徳堂は、五同志と呼ばれる豪商の経済力を基盤として運営され、受講生のほとんどは町人(商人)であった。しかし、石庵は、商業活動や営利事業について論ずるのではなく、それらを根底にあって支える「人の道」を説いたのである。また、これは、石庵に限られたことではなく、以後の懐徳堂の講義においても貫かれた。懐徳堂では、「商」の基盤となる「人の道」が考究され、講じられたのである。

「商」と「利」

しかし、「人の道」とは言っても、それは融通の利かない硬直した倫理道徳でなかった。石庵はこれに続く『孟子』の講義において、次のように説いている。

王亦曰仁義而已矣、何必曰利 仁而義而ト云フハ、仁義ヲスル者ハ、利ハセネドモ、自ラ利ガツイテマハル也……胸中ニ仁義ト利欲トガ相戦ヒテハ、甚ダ工夫セネバナラヌコトナリ、子夏ノ如キ賢者デモ、ココニ病メルコトアリ、ヨクヨク工夫スベキコトリ、サテ利ト云フモノガ、タダ勝手ノヨキコトニテ、コレニ咎ハナケレドモ、ソコニ好ミガツクガ利スルト云フモノニテ、コレデアシキナリ

これは、戦国時代、梁(魏)の恵王と孟子との問答の場面である。当時、戦国の七雄は覇権を争っていた。諸侯は国力の増強に努め、思想家は各々の理想を胸に諸国を遊説し、王の面前で自説を主張した。孟子に謁見した恵王は、さっそく「どのようにして我が国に利をもたらしてくれるのか」と質問した。これに対して、孟子は「王はどうして利益のことばかりお考えになるのですか。大切なのは仁義だけです」と答えた。ここに、「利」と「仁義」との対立が見える。これに対して三宅石庵は、次のような注釈を展開した。

仁義を実践する者は、自ら利益を追求するわけではないが、自然と利がついてまわるのである。……胸の内に仁義と利欲の心が戦ったときには、よほど工夫をしなければならない。(孔子の高弟の)子夏のような賢者でも、そのことに心を痛めたのである。「利」は勝手のよいものであって、そのこと自体に差し障りがあるわけではない。しかし、利益を追求することを愛好するようになると、そこに弊害が生ずるのである。

このように、石庵は、伝統的な儒家思想の中で厳しく対立すると考えられてきた「利」と「仁義」とについて、柔軟な思考を展開している。つまり、仁義の実践者には結果として利がついてまわるという前後関係を想定し、また、「利」そのものには害はないが、それを追求する欲望が弊害を生むという形で、両者を統合してみせるのである。

これは、当日の受講生に配慮した結果と言えなくもない。しかし、懐徳堂では、その後も、例えば、中井竹山の『蒙養篇』の中に、やはり、こうした思考をうかがうことができ(「懐徳堂の精神」の「1.倫理」の項参照)、「利」に対する考え方が、きわめて柔軟なものであったことが分かる。これも、大坂の町に生まれ、商人によって支えられた懐徳堂の大きな特色の一つである。