懐徳堂研究情報

「懐徳堂研究情報」は、一般財団法人懐徳堂記念会からの依頼により、懐徳堂研究会メンバーが作成する研究情報で、毎年、雑誌『懐徳』に掲載するものです。また、懐徳堂記念会の許可を得て、雑誌『懐徳』の刊行と同時に、このホームページでも速報として公開します。
 情報の追加や訂正なども随時このホームページで行います。加筆修正箇所はオレンジ色で示しています。

今回は、『懐徳』第92号(2024年1月31日刊行)に掲載された研究情報を公開します。お気づきのことがありましたら、こちら(huaidetang2000★gmail.com ★を@に)までメールにてご連絡をお願いします。

 

【平成二十九年(二〇一七)】
【平成三十年(二〇一八)】
【令和元年(二〇一九)】
【令和二年(二〇二〇)】
【令和三年(二〇二一)】
【令和四年(二〇二二)】
批評・紹介 池田光子 竹田健二 湯浅邦弘

 

 

  懐徳堂研究情報欄の新設について

湯浅邦弘

 

 昭和五十八年(一九八三)、『懐徳』第五十二号に「懐徳堂関係研究文献提要(一)」が掲載された。以後、毎年回を重ね、昨年刊行の第九十一号で通算三十八回を数えている。原則として、前年または近年発表された懐徳堂関係の論文数点を取り上げて、その概要を簡潔に紹介してきた。現在のように電子化が進んでいなかった当時は、紙媒体で論文を読むほかはなく、取り寄せが困難なものもあったことから、こうした提要は研究情報として比較的貴重なものであった。
 しかし近年、多くの雑誌が電子公開を進めており、直接電子版を確認することも可能となりつつある。またこれまでは、主として大阪大学中国哲学研究室の大学院生が草稿を執筆し、教員の指導を経て定稿としてきたが、その体制の維持も困難となったことから、このたび懐徳堂記念会より、新たな誌面作りについて依頼があった。
 これを受けて懐徳堂研究会が中心となり、「懐徳堂研究情報」と改称した上で継承することとした。内容は、これまでの「提要」とは異なり、「論著リスト」と「批評・紹介」とで構成する。
 「論著リスト」については、原則として前年度に発表された関係論著の一覧を掲げるが、今号のみ特別に近六年分を一挙掲載する。また、「批評・紹介」は、このリスト中のものを含む比較的近年に発表された論著について、批評または紹介するものである。『懐徳』読者への情報提供を目的とするため簡潔平易な内容とし、本格的な書評については別途、『懐徳』または他誌への掲載を検討する。
 しばらくは手探りの状況が続き、書式も一定しないことが予想されるが、読者諸氏のご意見を賜りながら改善していきたい。今号については、「論著リスト」を湯浅邦弘、六車楓が担当し、「批評・紹介」は、池田光子、竹田健二、湯浅邦弘の三名が担当した。
 なお、現在、『懐徳』は各号発行の三年後から電子版を公開することとなっているが、この研究情報のみは速報としての意味合いもあるので、懐徳堂記念会の了解を得て、紙版の発行と同時に、懐徳堂研究会のホームページ(https://www.kaitokudo-kenkyukai.org/)にも掲載している。リストに誤脱などがあった場合には、このホームページの連絡先までお知らせいただければ幸いである。修正情報も逐次このホームページで公開したい。
 

懐徳堂研究情報(1)
論著リスト 平成二十九年(二〇一七)~令和四年(二〇二二)
湯浅邦弘、六車楓

 
【凡例】
・毎年一月から十二月までを区切りとして、各年ごとに[著書]と[論文・その他]とに分けて記載する。
・同一年内は、それぞれ執筆者の五十音順とし、[著書]については、著者・タイトル・出版社名、[論文・その他]については、執筆者・タイトル・掲載誌名を記す。
・[著書]は、直接懐徳堂に関わるものはもちろん、間接的にでも懐徳堂研究に資するものは広く取り上げることとした。また、書評が出ているものについては、その情報を直後の→以下に附記する。
・[論文・その他]で、この論著リスト刊行時点において電子版が無料公開されているものについては、末尾に☆印を付ける。但し、個別のURLは記載しないので、閲覧する際にはインターネットで検索していただきたい。
・サブタイトル前後の表記の仕方は論著により様々であるが、ここではすべてメインタイトルの後に「―」を付けることで統一した。
・数字の表記は、縦書に合わせて漢数字とする。
・漢字の表記は原則として現代日本の通用字体とする。中国語の繁体字・簡体字も同様に改める。
【平成二十九年(二〇一七)】
[著書]
・陶徳民『日本における近代中国学の始まり―漢学の革新と同時代文化交渉』(関西大学出版部)
[論文・その他]
・井上了「明治における『通語』―南朝正統論者としての中井履軒」(『懐徳』第八十五号)
・神田裕子「寛政九年の中井竹山―早稲田大学図書館所蔵「中井竹山書簡 尾藤二洲宛」解題・翻刻・影印」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・黑田秀教「尽くは書を信ぜざる儒者―中井履軒の経書観」(『台大日本語文研究』第三十三期)
・佐藤由隆「五井蘭洲と中井履軒の格物致知論」(『東アジア文化交渉研究』第十号)
・佐藤由隆「懐徳堂学派の知行論」『日本中国学会報』(第六十九号)
・佐野大介「生日における孝の系譜」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動―中井甃庵・五井蘭洲を中心に」(『懐徳』第八十五号)
・白井順「懐徳堂教授・吉田鋭雄と蜀人・査体仁『学庸俗話』」(『中国研究集刊』第六十三号)☆
・竹田健二「中井木菟麻呂が受け継いだ懐徳堂の遺書遺物―小笠原家に預けられたものを中心に」(『中国研究集刊』第六十三号)☆
・竹田健二「懐徳堂文庫新収資料中の太田源之助旧蔵資料」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・竹田健二「西村天囚の五井蘭洲研究と関係資料―『蘭洲遺稿』・『鶏肋篇』・『浪華名家碑文集』について」(『懐徳』第八十五号)
・築山桂「近世大坂の学問所(第3回)適塾と懐徳堂」(『やそしま』第十一号)
・寺門日出男「五井蘭洲『非伊編』について」(『懐徳』第八十五号)
・西尾章治郎「懐徳堂について思うこと」(『懐徳』第八十五号)
・西岡幹雄、仲北浦淳基「「固寧」理念と地域的紐帯―社倉の制度化をめぐって―中井竹山と小西惟冲」(『経済学論叢』第六十八号)
・野口眞戒「『三彝訓』における神儒仏一致の思想について」(『待兼山論叢哲学篇』第五十一号)
・藤居岳人「尾藤二洲の朱子学と懐徳堂の朱子学と」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・藤居岳人「中井履軒にとっての「命」―『論語逢原』の程注批判から」(『懐徳堂学派における儒教の展開に関する研究』)(『懐徳堂研究第二集』掲載)
・矢羽野隆男「幕末懐徳堂の情報環境―島津久光の率兵上洛を中心に」(『懐徳』第八十五号)
・矢羽野隆男「山本竹園・竹渓墓誌銘訳注―近代大阪における儒学者の交流一斑」(『四天王寺大学紀要』第六十三号)
・矢羽野隆男「大成会の釈奠―藤沢南岳と山本梅崖と」(関西大学東西学術研究所〈関西大学東西学術研究所研究叢刊56〉『泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈―関西大学創立一三〇周年記念泊園書院シンポジウム論文集』)(関西大学出版部)
・湯浅邦弘「幕末の漢文力―ロシア軍艦来航始末」(『温故叢誌』第七十一号)
・湯城吉信「五井持軒『和語集解』翻刻」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・湯城吉信「『滑稽叢話』に見る辛亥革命前後の中国―知られざる懐徳堂文庫の魅力」(『懐徳』第八十五号)
【平成三十年(二〇一八)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇七』(関西大学出版部)
・竹田健二編著『懐徳堂研究第二集』(汲古書院)
・森和也『神道・儒教・仏教─江戸思想史のなかの三教』(ちくま新書)
 →(書評)野口眞戒「書評 森和也著『神道・儒教・仏教―江戸思想史のなかの三教』」(『懐徳』第八十九号、二〇二一年)
・横山俊一郎『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』(清文堂出版)
 →(書評)松川雅信「横山俊一郎著『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』」(東アジア思想文化研究会『東アジアの思想と文化』第十号、二〇一九年)
[論文・その他]
・池田光子「懐徳堂アーカイブ講座の再開」(『懐徳』第八十六号)
・笠井哲「山片蟠桃『夢の代』における大宇宙観について」(『研究紀要』第五十九号)
・椛島 雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(1)」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・黒田秀教「五井蘭洲「兵論」について」(『中国研究集刊』第六十四号)☆
・黑田秀教「中井履軒の服喪説―『服忌図』と「擬服図」との成立過程及びその特色」(『懐徳堂研究第二集』)
・黑田秀教「懐徳堂無鬼論の再検討―祖霊を軸にして」(『東方宗教』第一三一号)
・佐藤由隆・河野光将「懐徳堂関連新収(二〇一六)資料暫定目録」(『懐徳』第八十六号)
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動(2)中井竹山・履軒を中心に(上)」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・佐藤由隆「五井蘭洲の「敬」論についての一考察」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・清水光明「「草茅危言」の書誌学的考察―懐徳堂文庫所蔵の竹山自筆本の検討から」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・竹田健二「西村家所蔵資料中の一枚の集合写真について」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・寺門日出男「中井蕉園の漢詩文集について―並河寒泉撰『壎集』をめぐって」(『懐徳』第八十六号)
・藤居岳人「江戸時代における儒者の朝廷観―中井竹山、新井白石らを例として」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・藤居岳人「儒者と寛政改革と」(『懐徳堂研究』第二集)
・宮川康子「富永仲基と慈雲―近世仏教改革運動はなぜ起こったか」(『現代思想』第四十六号)
・矢羽野隆男、池田光子「『並河潤菊家傳遺物目録』翻刻(増訂版)」(『懐徳堂研究』第九号)
・湯浅邦弘、竹田健二、佐伯薫「西村天囚関係資料調査報告―種子島西村家訪問記」(『懐徳』第八十六号)
・湯浅邦弘「懐徳堂文庫所蔵「版木」のデジタルアーカイブ」(『懐徳堂研究』第二集)
・湯城吉信「懐徳堂における漢作文実習」(『中国研究集刊』第六十四号)☆
・横山俊一郎「山口県宇部地域における泊園書院出身者の事業活動の一考察―渡辺祐策を支えた名望家を中心に」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五十一号)
【令和元年(二〇一九)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇八』(関西大学出版部)
・陶徳民『西教東漸と中日事情―拝礼・尊厳・信念をめぐる文化交渉』(関西大学出版部)
 →(書評)山村奨「中国と日本、西洋、多様性へ」(東方書店『東方』四七〇号、二〇二〇年四月)☆
・牧角悦子・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第一巻 漢学という視座』(戎光祥出版)
[論文・その他]
・池田光子「種子島西村家所蔵西村天囚関係資料の整理状況と特徴とについて」(『懐徳』第八十七号)
・殷暁星「寛政期における清聖諭の受容―和刻『聖諭広訓』の成立・講釈と懐徳堂知識人」(『立命館文學』第六六〇号)
・椛島雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(2)」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・黑田秀教「中井竹山に見る懐徳堂の漢作文―達意を軸として」(『新しい漢字漢文教育』第六十八号)
・黑田秀教「五井蘭洲『鶏肋篇』所収「駁太宰純赤穂四十六士論」について」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・佐藤秀俊「中井履軒『論語逢原』における「専言之仁」「偏言之仁」」(『言語文化研究科紀要』第五号)
・佐藤由隆(劉瑩訳)「知行並進論的系譜」(『朱子学研究』第三十三輯)
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動(3)中井竹山・履軒を中心に(下)」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・白井順「西村天囚の門人・岡山源六―その中国貴陽時代を中心に」(『懐徳』第八十七号)
・竹田健二「西村天囚の懐徳堂研究とその草稿―種子島西村家所蔵西村天囚関係資料調査より」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・竹田健二「種子島西村家所蔵資料三点に見る西村天囚と重建懐徳堂」(『懐徳』第八十七号)
・森川潤「懐徳堂における町人の学問」(『広島修大論集』第六十号)
・湯浅邦弘「日本の中国学研究と四庫全書」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・湯浅邦弘「西村天囚の知のネットワーク―種子島西村家所蔵資料を中心として」(『懐徳』第八十七号)
・湯浅邦弘「平成三十年度(二〇一八)種子島西村天囚関係資料調査について」(『懐徳』第八十七号)
・湯城吉信「懐徳堂末期の漢文教育―並河寒泉『課蒙復文原文』、並河蜑街『復文草稿』を中心に」(『大東史学』第一号)
・湯城吉信「大阪府立中之島図書館蔵「五井蘭洲講義筆記」の抄者について」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・湯城吉信「柿衞文庫所蔵の懐徳堂ゆかりの絵画―その画賛を読む」(『中国研究集刊』第六十五号)☆
【令和二年(二〇二〇)】
[著書]
・江藤茂博・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第二巻 漢学と漢学塾』(戎光祥出版)
・江藤茂博・加藤国安編『講座近代日本と漢学第五巻 漢学と教育』(戎光祥出版)
・江藤茂博編『講座近代日本と漢学第八巻 漢学と東アジア』(戎光祥出版)
・佐藤進・小方伴子編『講座近代日本と漢学第七巻 漢学と日本語』(戎光祥出版)
・清水光明『近世日本の政治改革と知識人―中井竹山と「草茅危言」』(東京大学出版会)
 →(書評)藤居岳人「清水光明著『近世日本の政治改革と知識人―中井竹山と「草茅危言」』」(『懐徳』第九十号、二〇二二年)
・藤居岳人『懐徳堂儒学の研究』(大阪大学出版会)
 →(書評)池田光子「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『週刊読書人』第三三六六号、二〇二〇年)
 →(書評)竹田健二「書評:藤居岳人『懐徳堂儒学の研究』」(『図書新聞』三四七九号、二〇二一年一月十六日)
 →(書評)黒住真「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『日本歴史』二〇二一年十一月号)
 →(書評)寺門日出男「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『懐徳堂研究』第十三号、二〇二二年)
・牧角悦子・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第四巻 漢学と学芸』(戎光祥出版)
・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第三巻 漢学と医学』(戎光祥出版)
・藪田貫『武士の町 大坂』(講談社学術文庫)
・山口直孝編『講座近代日本と漢学第六巻 漢学と近代文学』(戎光祥出版)
・湯浅邦弘編著『儒教の名句―『四書句辨』を読み解く』上巻(汲古書院)
・湯浅邦弘著・白雨田訳『懐徳堂研究』(四川大学出版社)
[論文・その他]
・足達新「懐徳堂と万博」(『懐徳』第八十八号)
・天野聡一「五井蘭洲の和学―『勢語通』の改稿過程を通して」(『国語と国文学』第九十七号)
・井上克人「仁斎・徂徠・仲基における漢籍の解釈学」(『東アジア文化交渉研究』第十三号)
・井上了「三木通明旧蔵の中井竹山自筆本『蒙養篇』について」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・王鑫「中井履軒的心性論―以《孟子逢原》為中心」(『東アジア文化交渉研究 』第十三号)
・椛島雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(3)」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・菊池孝太朗・六車楓「中井竹山の歴史観と元号観と―『草茅危言』巻之一「年号ノ事」を手掛かりに」(『懐徳』第八十八号)
・黑田秀教「懐徳堂の統治論―徂徠学との思想的接続」(『日本中国学会報』第七十二集)☆
・佐藤秀俊「中井履軒『論語逢原』におけるコンテクスト理解の特質」(『文教大学国文』第四十九号)
・佐藤由隆「中井竹山の文章観―懐徳堂の「博約並進」」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・佐野大介「北山文庫蔵『孝子彦太夫伝』について附翻刻」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・竹田健二「重野安繹と中井木菟麻呂―『黄裳斎日記』を中心に」(『国語教育論叢』第二十七号)☆
・藤居岳人「龍野藩の儒者と中井竹山と」(『懐徳』第八十八号)
・北京外国語大学北京日本学研究中心編『日本学研究』第三十輯「日本儒学与懐徳堂研究専欄」
 ・高橋恭寛・許家晟「日本陽明学派与懐徳堂諸儒者的思想交雑」
 ・清水則夫・崔鵬偉「懐徳堂朱子学之変遷―五井蘭洲与中井竹山」
 ・浅井雅・許家晟「懐徳堂与西部諸藩的儒者―以龍野藩為中心」
・宮川康子「仁斎古義学の革命性―有鬼と無鬼の系譜」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第二十五号)
・湯浅邦弘「西洋近代文明と向き合った漢学者―西村天囚の「世界一周会」参加」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第六十巻)☆
・湯城吉信「「採蓮図」と「源義家望雁図(騎馬武者図)」―懐徳堂文庫蔵の雛人形と五月人形と」(『懐徳』第八十八号)
・横山俊一郎「住友家の人々と泊園書院―『南汀遺稿』の考察を中心として」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五十三号)
・劉宇昊「中井履軒の理論構造における外在性概念―『孟子逢原』の「徳」と「悪」の解釈を中心に」(『研究東洋―東日本国際大学東洋思想研究所・儒学文化研究所紀要』第十号)
【令和三年(二〇二一)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇九』(関西大学出版部)
・陶徳民『もう一つの内藤湖南像―関西大学内藤文庫探索二十年』(関西大学出版部)
・陶徳民ほか編著『The Tokugawa World(徳川世界)』(ラウトレッジ)
・湯浅邦弘編著『儒教の名句―『四書句辨』を読み解く』下巻(汲古書院)
・湯浅邦弘編集・解説『西村天囚『論語集釈』』(大阪大学大学院文学研究科)
[論文・その他]
・池田光子「第二次新田文庫について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・佐藤由隆(劉瑩訳)「日本懐徳堂学派的博約並進―以中井竹山為中心」(『日本哲学与思想研究』二〇一八―二〇一九巻)
・竹田健二・湯浅邦弘・池田光子「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定目録(遺著・書画類等)」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・竹田健二「「碩園先生著述目録」と現存資料について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・寺門日出男「京都学問所復興計画と懐徳堂」(『懐徳』第八十九号)
・宮川康子「懐徳堂の中庸解釈」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第二十六号)
・湯浅邦弘「小宇宙に込めた天囚の思い―種子島西村家所蔵西村天囚旧蔵印について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・湯浅邦弘「西村天囚『欧米遊覧記』と御船綱手「欧山米水帖」―明治四十三年「世界一周会」の真実」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第六十一号)☆
・湯浅邦弘「懐徳堂の復興と西村天囚―「世界一周会」の歴史的意義」(『懐徳』第八十九号)
・湯城吉信「懐徳堂文庫所蔵「象背宴集図」に見える西洋の影」(『大東文化大学紀要(人文科学)』第五十九号)
【令和四年(二〇二二)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇十』(関西大学出版部)
・吾妻重二監修、横山俊一郎著『泊園書院の人びと―その七百二人』(清文堂出版)
 →(書評)藪田貫「吾妻重二監修横山俊一郎著『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』(『図書新聞』二〇二二年十二月三日)
 →(書評)読売新聞「江戸後期から戦後の私塾「泊園書院」輩出、702人紹介」(二〇二二年十月三十日)☆
・呉谷光充『町人都市の誕生―いきとすい、あるいは知』(中央公論美術出版)
・澤井啓一『伊藤仁斎―孔孟の真血脈を知る』(ミネルヴァ書房)
・陶徳民『内藤湖南の人脈と影響―関西大学内藤文庫所蔵還暦祝賀及び葬祭関連資料に見る』(関西大学出版部) 
 →(書評)竹元規人『中国研究月報』第七十七巻第五号(二〇二三年五月)
・陶徳民著、辜承堯訳『日本近代中国学的形成―漢学革新与文化交渉』(江蘇人民出版社、前出『日本における近代中国学の始まり―漢学の革新と同時代文化交渉』の中国語版)
・藪田貫『大塩平八郎の乱―幕府を震撼させた武装蜂起の真相』(中公新書)
 →(書評)今谷明「新史料を徹底調査、大塩平八郎の乱の真相を解明した労作」(『週刊エコノミスト』二〇二三年二月七日号)
・湯浅邦弘編著『よくわかる中国思想』(ミネルヴァ書房)
・湯浅邦弘編集・解説『西村天囚旧蔵印』(大阪大学人文学研究科)
・湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』(KADOKAWA)
 →(新刊ガイド)『本の雑誌』四六六号(二〇二二年三月十日)
 →(書評)山陽新聞「明治の世界一周、鮮明に」(二〇二二年四月十七日)
 →(書評)日本経済新聞「明治末期の旅行と漢学思想」(二〇二二年四月二日)
 →(書評)陶徳民「西村天囚と重建懐徳堂に関する研究の新生面を開いた好著―湯浅邦弘著『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』」(『懐徳堂研究』第十四号、二〇二三年二月)
[論文・その他]
・黑田秀教「幻の中井履軒撰『修辞通』―帆足万里『修辞通』の懐徳堂文庫蔵写本について」(『懐徳』第九十号)
・黑田秀教「帆足万里『修辞通』の江戸時代写本の翻刻および解説」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「西村天囚の懐徳堂研究と『拙古先生筆記』」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定目録(遺著・書画類等)補訂(拓本類)」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「翻刻 西村天囚著『懐徳堂考之一』(その一)」(『島根大学教育学部紀要』第五十五号)☆
・谷口洋「西村天囚『屈原賦説』にみる漢学の近代」(『超域文化科学紀要』第二十七号)☆
・西田正宏「大坂の学芸史―円珠庵から懐徳堂へ」(大阪公立大学現代システム科学域編『大学的大阪ガイド』)
・前川知里「翻刻 藤澤南岳『七香齋日録』(3)」(『書道学論集 大東文化大学大学院書道学専攻研究誌』第十九号)☆
・町泉寿郎「湯島聖堂と漢学の近世近代(懐徳堂秋季特別講座「湯島聖堂と懐徳堂」)」(『懐徳』第九十号)
・山路孝司「国立国会図書館所蔵 頼山陽旧蔵『生駒山人詩集』について―詩稿と思われる頼山陽の書き入れを中心に」(『懐徳』第九十号)
・湯浅邦弘「大阪文化の力―懐徳堂の歴史と意義(懐徳堂秋季特別講座「湯島聖堂と懐徳堂」)」(『懐徳』第九十号)

 

 

批評・紹介

長く、短い旅―湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』を楽しむ―
池田光子
 
 
一、旅のはじめに
 本書は、朝日新聞社主催「第二回世界一周会」の旅を紹介したものである(注1)。約四センチに及ぶ本書の背幅を見て、「世界一周をするだけに、読書の旅も長くなりそうだ」、そう思う人もいるかもしれない。筆者もその一人であった。しかし、その予想は大きく外れ、ほんの数日で旅は終わってしまった。夢中になって読んでしまったのである。
 読書による旅は数日であったが、実際の旅の期間は、明治四十三(一九一〇)年四月六日から同年七月十八日までの百四日間と長い。参加者は総勢五十七名。この百四日間の旅に、朝日新聞社の特派社員の一人として参加していたのが、『欧米遊覧記』の主著者・西(にし)村(むら)天(てん)囚(しゅう)(一八六五~一九二四)である。
 西村天囚は、現在の鹿児島県西之表市出身の漢学者・ジャーナリスト。幼い頃より漢文を学び、上京して東京大学古典講習科の漢書課に入学。中退後は、「さゝ浪新聞」や『大阪公論』の記者を経て大阪朝日の編集員となり、その漢文力を活かして活躍した。
 天囚たちが電信で日本に送った旅の様子は、数日遅れで東西の朝日新聞に掲載された。この時の紀行を帰国後に編集したものが、『欧米遊覧記』(朝日新聞合資会社、明治四十三年十月)である。この書は、発売直後から増刷を重ねるほど、好評であった(注2)。本書は、この『欧米遊覧記』をベースにして、第二回世界一周会の旅を紹介している。章立ては次のとおり。
一、出発まで 二、出航 三、ハワイ 四、サンフランシスコ 
五、アメリカ大陸横断鉄道 六、アメリカ東海岸の諸都市 
七、イギリス 八、フランス 九、イタリア 十、スイス 
十一、ドイツ 十二、ロシア 十三、シベリア鉄道 十四、帰国 
十五、世界一周会語録 十六、世界一周会のその後 
十七、世界一周会の歴史的意義
 一章から十四章までは、『欧米遊覧記』の記述に沿って、世界一周会の旅の様子が解説・紹介している。解説・紹介にあたっては、読みやすさを考慮し、著者が原文(『欧米遊覧記』の文章)を現代的な表現に置き換えている。十五章では、『欧米遊覧記』に登場する印象深い言葉(十四章までに登場した言葉は除く)をまとめ、原文も付けて解説している。十六章は、天囚を中心に、一周会関係者・関係地のその後が紹介されている。十七章は、「世界一周会」による世界旅行の意義について考察し、まとめた章である。
 著者の大阪大学の湯浅邦弘教授は(注3)、この数年間、天囚に関する研究を続々と発表している。その研究成果や関連する新情報も内容に反映されており、本書の特徴の一つとなっている。このような学術的側面については、既に関西大学の陶徳民名誉教授によって詳しく取り上げられている(注4)。よって本稿では、学術的な面ではなく、旅を短く感じた原因である、本書の文章表現の特徴を紹介していきたい。
二、読者と共に旅する工夫
 自分が見聞した事物について、その事物を全く知らない相手に伝えなければならない時、まず思いつく手法は画像の提示であろう。第二回世界一周旅行では、写真のほか、日本画家の御(み)船(ふね)綱(つな)手(て)(一八七六~一九四一)がその役割を担い、旅先で数多くのスケッチを作成し、帰国後に「欧山米水帖」にまとめた。本書でも御船の絵が多数紹介されている。では、文章での手法はどうだろうか。そこで、天囚の文章(原文)の特徴を見ていきたい。章立てのところで紹介したとおり、原文は十五章にその一部が確認できる。よって、十五章にある原文から三点紹介する。
①漢語の使用
夜は千万点の電(でん)灯(とう)丘より谷に連なりていといと美しく、皓(こう)月(げつ)また桑(そう)港(こう)湾(わん)を照らして、夜景の佳(か)麗(れい)言うべからず
 「皓月」とは白く輝く月のこと。「桑港湾」はサンフランシスコ湾。つまり、サンフランシスコの夜景の美しさについて述べた言葉である。著者はこの文章を「坂の多いサンフランシスコの丘の上から谷の下まで、数知れぬ電灯がきらめき、また白く輝く月がサンフランシスコ湾を照らす。「佳麗」としか言いようのない光景であった」と訳している。著者の訳はとても分かりやすく、これだけでも情景が思い描けるが、原文を読むと、リズム感も兼ね備えていた文章であったことが分かる。「皓月また桑港湾を照らして、夜景の佳麗言うべからず」のところは、まるで七言の漢詩を読んでいるようである。
 前章に記した天囚の経歴から看取できるように、天囚は漢文を得意としていた(注5)。漢語的表現やリズムを取り入れて文章を作ることなど、お手の物であったろう。そして、その意図を受け止められるほど、当時の人々の漢文力が高かったことは、容易に察せられるところである。当時の読者は漢詩のようなリズム感を味わいつつ、鮮やかな光に照らされたサンフランシスコの情景を脳裏に描いていたのであろう。
②日本の風景に擬(なぞら)える
 お互い知っている(であろう)物に喩える方法も、伝達方法として有効である。天囚もその手法を用いており、海外の風景を日本の風景に擬えて伝えようとしている記述が散見される。左はその一つ。
鳩群(むら)がりて食(しょく)を人に求むること浅(あさ)草(くさ)に似たり
 ヴェニスのサンマルコ寺院の広い中庭で見かけた光景を、浅草の様子に重ねて表現した言葉である。「浅草」、「鳩」と言えば、浅(せん)草(そう)寺(じ)の本堂西側にある「鳩ポッポの歌碑」を思い浮かべる人が多いであろう(注6)。童謡「鳩ぽっぽ」は、明治三十三(一九〇〇)年に東(ひがし)くめ(一八七七~一九六九)が、浅草寺の境内で鳩と戯れてる子供たちに着想を得た歌詞である(注7)。作曲は、瀧(たき)廉(れん)太(た)郎(ろう)(一八七九~一九〇三)が担当。天囚もまた、読者の多くが「鳩ぽっぽ」を想像すると予測していたのではないだろうか(注8)。
 サンマルコ寺院と浅草寺は、宗教施設という点で一致するものの、建物の風貌は全く異なる。しかし、人が多く立ち寄る場所であることや、その人々に群がる鳩の様子が共通していたため、この比喩を用いたのであろう。サンマルコ寺院を見たことがない読者にとって、寺院の姿を想像することは難しかったかもしれないが、雰囲気は充分に伝わったのではないかと思われる。
③人を伝える
勝敗の疑わしきときは、潔(いさぎ)よく勝ちを敵に譲って莞(かん)爾(じ)たる其(そ)の態度、真(しん)個(こ)に紳士的なる敬(けい)服(ふく)の至りに堪(た)えず
 大西洋上の船内で、運動会を開催しようとの声が白人からあがった。五月二十一日に開催となり、午前十時半から、二人三脚、卵すくいなどの競技が次々と行われたと言う。この時、記念品として、『国(こっ)華(か)』(注9)や御船綱手自筆の日本画が授与された。この授賞式の際に司会を務めたニューマン氏の挨拶の一部が、この言葉である。該当箇所に対する著者の訳は次のとおり。「(日本の紳士諸君が、)勝敗の微妙なときに、潔く勝ちを敵に譲って莞爾たる(にっこり笑う)その態度、これこそ真の紳士で、敬服の至りである」。
 筆者はこの文章に、天囚が読者に伝えようとした二つの意図があると考えている。一つが、不慣れな旅の中にあっても、世界一周会員が品行方正であったこと。もう一つが、日本人を友好的に評価する外国人の態度である。
 このように、日本人の様子だけではなく、諸外国の人々の様子も伝えようとする天囚の文章については、著者も指摘している。本書二一〇~二一一頁の「正直な給仕長」に、イタリア人給仕長の実直な人柄と人の心のあたたかさを示すエピソードが紹介されている。この解説で著者は、「天囚の紀行がすぐれているのは、諸外国の有名観光地を論ずるだけではなく、こうした庶民の細やかな心情に注目する点である」と指摘する。日米和親条約(一八五四)から半世紀が経過しているとはいえ、日本国内で外国人と接したり、外国の情報と接する機会は少なかったであろう。しかし、旅の前年に起きた伊藤博文暗殺事件や、明治三十七(一九〇四)年の日清戦争などから、日本と世界との関係について、一般の人々も強い関心を持っていたであろうことは、想像に難くない。日本にいる読者達は、諸外国の人々に日本人がどのように受け入れられ、評価されているのか、そしてまた諸外国の人々の人となりはどのようなものなのか等の情報を天囚の言葉から得ていたのであろう。当時の人々の様子を窺うことができる、興味深い記述である。
 以上の①から③が、筆者が紹介する天囚の文章の特徴である。これらの特徴が手助けとなり、当時の読者は世界一周を追体験していたのであろう。しかし、現代の私たちにとっては、天囚の手助けのみでは、旅の追体験が難しいところがある。何故ならば、私たちには当時の人々ほどの漢文力はなく、また、日本の風景で喩えを示されても、百年前と今とでは様相が変わってしまったためである。
 そんな現代の私たちを手助けしてくれているのが、著者の解説である。語句説明はもちろん、当時の世界情勢や地図の提示、絵画の説明や船の名称の出典など、私たちが楽しく旅を共に出来るよう、多くの手助けをしてくれている。その中でも、筆者が注目したのは、「映画」を用いた手助けである。
④現代の私たちへのサポート
 本書三六六頁に、ローマのコロッセオなどの廃墟を見物したときの話が記されている。天囚は、古代ローマの廃墟の様子を「柱(ちゅう)礎(そ)落(らく)々(らく)として、断(だん)碑(ぴ)古(こ)像(ぞう)、又(また)其の間に立ち、処(しょ)々(しょ)の廃(はい)井(せい)には幽(ゆう)草(そう)空(むな)しく茂(しげ)れり(柱や基礎が崩れ石碑や石像はくだけて一部が残り、ところどころの井戸の跡には虚しく草が生い茂っている)」と表現し、栄枯盛衰を感じさせる廃墟の様子を巧みに描出している。
 この解説で著者は、現代の読者のイメージを膨らますため、二つの映画を紹介している。一つが、世界的に有名な映画「ローマの休日」(一九五三)である。続いてもう一つ紹介しているのが、原作の漫画も大ヒットした、「テルマエ・ロマエ」(二〇一二、「テルマエ・ロマエⅡ」は二〇一四)である。前者については、現代よりは天囚に近い時代のローマの観光地を観るために最適な映画であろう。後者は近年の映画ではあるが、廃墟前のローマの様子が感じ取れるとして、著者は紹介している。つまり、現代の読者が旅の追体験がしやすいよう、著者は映画と言うツールを用いているのである。
 なお、双方とも筆者は鑑賞した作品だったので、脳裏に映画のシーンが蘇った。やはり映像資料は力強い手助けである。
 本書は、言うなれば二人の著者が、読者の旅を手助けしてくれている贅沢な紀行文である。だからこそ、長旅を予想させる背幅でありながら、筆者の旅はほんの数日で終わったのであろう。
三、旅のおわりに
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」。中(なか)村(むら)草(くさ)田(た)男(お)(一九〇一~一九八三)の有名な句である。詠まれたのは昭和六(一九三一)年。雪の中で遊ぶ小学生の姿を見て、自分の小学生時代を思い出したら、もう二十年経っているのかとしみじみした気持ちを詠み込んだ歌である。とは言え、この頃はまだ明治は想起可能な時代であったろう。しかし、今や明治は「遠」と言うよりは「古」と言うべき時代になり、手助けがないと想像が難しい時代となってしまった。だが、二十年ほど前までは、まだ「古」の時代とはなっていなかったように筆者は感じている。そのように感じているのは、次の出来事が脳裏に焼き付いているためである。
 大学院生の時、筆者はある未調査資料群を調査していた。その資料群は明治から昭和にかけて活躍したある人物に関連するものであり、日記なども含まれていた。ある日、その資料群の閲覧に来られた方がいた。その方は、貴重な資料が残っていることに驚きと興奮とを示されながらも残念そうな色を滲ませ、「個人的な資料は関係者に迷惑をかけてしまう可能性があるので、公開や引用が難しいですね」と仰った。この言葉は、二十年ほど前までは、明治期の資料が同時代史資料として扱われていたことの表れと言えよう。つまりまだ「遠」だったのである。しかし、今や「古」となったことは、左の著者の言葉から明らかである(傍線は筆者による)。
明治四十三年から百年余りという時間である。百年前とは、すでにそれが同時代史ではなく、歴史的事象として検討できる対象であると言ってよいだろう。同時代では関係者が多すぎて、調べたり書いたりするのが憚れることもある。また、近すぎて逆に見えないこともあろう。(注10)
 著者がこのように言うのは、本書で用いている新資料にも起因するのではないかと筆者は考えている(注11)。この新資料は、天囚の生家である種子島西村家で発見された西村天囚関連資料群、通称「西村家所蔵西村天囚関係資料(以下、「天囚関係資料」と略称)」から発見された資料である。「天囚関係資料」は、平成二九(二〇一七)年から本格的に調査が始まり、現在は暫定目録も公開されている(注12)。筆者も調査に参加し、近代初期を代表する知識人たちとの交流を示す資料が多数含まれた貴重な資料群であることを実見している。中には日記に近い私的な記録もあるため、先述のとおり、二十年ほど前であれば、利用に何かしらの制限がついたかもしれない資料群である。だが、時代は令和になった。制限も解除されたと捉えて良いのではないだろうか。
 今後は、「天囚関係資料」のように、今まで隠れていた近代初期の資料が続々と発見され、本書のように、新資料を用いた近代初期の知識人たちの新たな様相が明らかになるかもしれない。そうなった場合、本書はその先駆け的存在と位置づけても良いのではないだろうか。
 筆者にとって本書は、第二回世界一周会旅行の楽しさだけではなく、その楽しさの土台となっている文章表現や資料の存在についても学ぶことができた書籍だった。実際の旅でも、普段とは異なる体験をすることで、新たな発想や考えを得ることがある。皆さんも是非、本書を通じて天囚たちとの旅を楽しんで頂きたい。

(1)「第一回世界一周会」は二年前の明治四十一(一九〇八)年に開催。
(2)本書四五二頁「なぜ第三回は企画されなかったのか」参照。
(3)現在は大阪大学名誉教授。
(4)書評 西村天囚と重建懐徳堂に関する研究の新生面を開いた好著―湯浅邦弘著『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』(『懐徳堂研究』第十四号、大阪大学大学院人文学研究科・文学部懐徳堂研究センター、令和五(二〇二三)年二月)
(5)天囚の漢詩文は、『碩園先生遺集』(懐徳堂記念会、昭和十一(一九三六)年十月)にまとめられている。
(6)「鳩ぽっぽ」の歌碑は、全国に五箇所ある(JR新宮駅前(和歌山県)、浅草寺(東京都)、善光寺境内(長野県)、五月山公園(大阪府))。
(7)着想を得た場所は、善光寺とする説もある。
(8)明治三十四(一九〇一)年に刊行された『幼稚園唱歌』に収められている。なお、「鳩」とは異なる曲である。
(9)岡倉天心、高橋健三らが創刊し(一八八九年)、東洋及び日本美術の重要作品の紹介・解説や美術史研究などを掲載している月刊美術雑誌。世界最古の美術雑誌とされる。刊行にあたり、朝日新聞社社長の村山龍平の支援があった。
(10)本書一〇頁「新資料、新事実の発見」。
(11)注10と同項参照。
(12)竹田健二、湯浅邦弘、池田光子「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定暫定目録(遺著・書画類等)」(『懐徳堂研究』第十二号、大阪大学大学院文学研究科・文学部懐徳堂センター、令和三(二〇二一)年二月)
湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』(KADOKAWA、二〇二二年、全五〇七頁、二七〇〇円)

 

東大古典講習科同期生の学術交流を明らかにする

池田光子「瀧川資言と西村天囚―西村家資料を用いた一考察―」(『中国研究集刊』第六十九号、二〇二三年三月)☆
竹田健二
 本論考は、東京大学文学部の古典講習科漢学課の同期生であった瀧川亀太郎(字は資(すけ)言(のぶ)、号は君山)と西村時(とき)彦(つね)(号は天囚、碩園)とに注目し、両者に関連する新出資料「択善居記」を手がかりとして、近代初期における漢学者等の学術交流の一端を明らかにしようとしたものである。
 古典講習科とは、明治十年(一八七七)に東京大学が創設された際に文学部に設けられた和漢文学科とは別に、明治十五年(一八八二)に設置された教育課程である(注1)。古典講習科は当初、主に日本の古典を学ぶ課程として設置されたが、翌年に中国の古典を学ぶ課程を増設して、日本の古典を学ぶ甲部と漢籍を学ぶ乙部とに分けられ、その後更に甲部が国書科、乙部が漢書課と改称された。資言と天囚とは、明治十六年(一八八三)に古典講習科漢書課の第一期生として入学した。
 古典講習科に入学する前に、島田篁村の双桂精舎で既に出会っていた二人は、入学後親しく交わることとなったが、天囚は官費生の制度が廃止されたことから明治二十年(一八八七)に退学、小説家として活躍した後、明治二十二年(一八八九)に大阪朝日新聞社に入社、主に言論界で活躍した。資言は明治二十年(一八八七)に古典講習科を卒業し、その後仙台の第二高等学校の教授となり学界で活躍した。活躍の場を異にしながらも、二人は生涯を通しての友であった。
 もっとも、二人の学術的な交流の実態を知ることのできる資料は、天囚の死後、天囚との出会いなどの様々なエピソードについて、資言が手紙の引用を多数交えながら述べた「碩園先生の初年と晩年」(『懐徳』第二号碩園先生追悼録〔懐徳堂堂友会、大正十四年(一九二五)〕所収)があるものの、他に二人の交流について知る手がかりとなる資料はほとんどなく、これまで注目されてこなかった。
 こうした資料的制約を突破するきっかけとなったのが、天囚の出身地である鹿児島・種子島の西村家に残されていた大量の天囚関係資料の発見である。二〇一七年に始まった西村家所蔵資料の調査に翌年から加わった筆者は、その中から発見された「択善居記」に注目する。「択善居記」は、資言が双桂精舎で同学であった越後の高橋柳渓からの依頼を受けて書いたもので、二葉仮綴じの抄本に記されている。離別してから四十年後に資言を訪問した柳渓が、かつて故郷に帰る際に島田からもらった「択善居」という書斎の号について書いてほしいと資言に依頼、この依頼に資言は応じたのである。
 筆者は、「択善居記」の資言の署名に続いて「初稿」と書かれていることに着目し、この資料は、資言が天囚に批正を求めて送った草稿であろうと推測する。そして、資言の「択善居記」が、斯文会発行の雑誌『斯文』第五編第六号(大正十二年〔一九二三〕十二月)の「文苑」欄に掲載されていることを指摘し、西村家所蔵の「択善居記」と『斯文』掲載の「択善居記」とは、一部に字句の異同が認められるが、後者が完成版であり、「初稿よりも完結でテンポの良い漢文へと変容しているのが看取できる」とする。
 筆者はまた、『斯文』掲載の「択善居記」の末尾に、天囚・安井小太郎・牧野謙次郞・日下寛の四人の概評が附されていることについて、「当時の漢学者は、文章を作成すると師友に回覧して批正を求め、文を練る風潮があった」とし、資言は四人に「択善居記」の草稿を送って批正を乞い、その意見を基に改稿したものが『斯文』に掲載されたと考える。そして、西村家所蔵資料の中に「択善居記」の「初稿」があったのは、天囚は「初稿」そのものを資言に返却しなかったが、別の方法で資言に意見を伝えたためであり、西村家所蔵の「択善居記」の発見により、資言が初稿の段階から天囚と意見交換を行い、二人が学術的交流を行っていたことが確認できたとする。また、『斯文』掲載の「択善居記」に安井・牧野・日下の三人の評が附されている点について、三人と資言とは「以文会」という詩文の振作を目的とした会の会員であり、資言は「択善居記」を以文会に提出して批評を求めた可能性が高いとし、資言を軸とする当時の漢学者等が、師友に回覧して批正を求める知的交流を行っていたことが窺えるとする。
 続いて筆者は、資言に関する研究に、今後は以下の二つの新たな視座が必要であると主張する。第一に、資言の代表的業績である『史記会註考証』以外の資料の検討である。筆者はこうした研究に該当するものとして、池澤一郎「大須賀筠(いん)軒(けん)と瀧川君山との交友―忘れられた日本近代文学―」(注2)をあげる。池澤によれば、従来資言は詩を好まなかったとされてきたが、実は詩学に造詣が深かった。
 第二に、資言と教科書検定との関係についての検討である。こうした研究に該当するものとして、木村淳「教科書検定に携わった漢学者―瀧川亀太郎と長尾雨山―」(注3)を筆者はあげる。木村によれば、資言は古典講習科を卒業した後、文部省大臣官房秘書課と図書課とを兼任し、明治二十七年(一八九四年)から翌年にかけて中学校用漢文教科書の検定に関わっており、その際の資言の姿勢は近代的な漢文教科書の発展において重要であった。
 最後に筆者は、天囚と資言とに関連する二点の新出資料を紹介する。一つは、二松学舎大学が収集した天囚の手紙で、古典講習科漢書課の一期生であった市村瓚次郎に宛てたものである(注3)。古典講習科を基軸とする漢学者のネットワークの解明について、筆者は意欲を示す。もう一つは、西村家所蔵資料から発見された、資言が天囚の母親・浅子に贈った寿聯である。先に触れた資言の「碩園先生の初年と晩年」には、天囚が資言に、母のために寿聯をおくってほしいと依頼した手紙が引用されているのだが、西村家からは天囚の求めに応じて資言が作成した寿聯が発見された。二人の友情の深さが窺えると筆者は指摘する。

(1)古典講習科については、町泉寿郎「三島中洲と東京大学古典講習科の人々」(戸川芳郎編『三島中洲の学芸とその生涯』(雄山閣、一九九九年)、藤田大誠『近代国学の研究』(弘文堂、二〇〇七年)、品田悦一・齋藤希史『「国書」の起源―近代日本の古典編成』(新曜社、二〇一九年)参照。
(2)『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第六十七輯(早稲田大学大学院文学研究科、二〇二二年)所収。
(3)江藤茂博・加藤国安編『講座近代日本と漢学第五巻 漢学と教育』(戎光祥出版、二〇二〇年)所収。
(4)『黎明期の歴史学―東洋史学者 市村瓚次郎資料から―』(二松学舎大学附属図書館、二〇二二年)所収の「31 西村時彦書簡」(一九一八年〈大正七〉三月六日、市村宛二〇六)を指す。
 

 

漢学復権への道―懐徳堂中井履軒の業績を掘り起こす―

藤居岳人「江戸時代の『荘子』研究の評価―中井履軒撰『荘子雕題』を題材に―」(『中国研究集刊』第六十九号、二〇二三年三月)☆
湯浅邦弘
 江戸時代の懐徳堂は朱子学を基本とする学問所であった。教学に使われていた古典は、『論語』『尚書』『大学』など儒教経典が中心である。
 しかし、中国古典は儒教文献に限らない。古代では諸子百家と言われる様々な思想家たちが活動し、それぞれ魅力ある文献を残していた。中国から日本に伝わってきたのは、儒教や仏教の経典に加えて、史書、諸子百家の書、詩文集など様々で、懐徳堂の教授たちも広範な読書を背景とした豊かな学識を備えていた。
 中でも、中(なか)井(い)履(り)軒(けん)は懐徳堂で最大の学問的業績を残したことで知られるが、『論語逢原(ほうげん)』『史記雕(ちょう)題(だい)』などのほか、老荘思想に関する注釈書も執筆している。老荘思想は、儒教と並ぶ中国思想史のもう一つの柱とされ、人々が当然のこととして疑わない価値観や言語観、極度な文明化がもたらす社会や人間の混乱などを鋭く指摘する点に特色がある。懐徳堂から一定の距離を置き、自由な境地に遊んだ中井履軒にとって、老荘文献は共鳴するところの多い古典であった。
 藤居岳人氏の論考は、その履軒が著した『荘子雕題』という『荘子』注釈書を取り上げ、履軒がどのように『荘子』を評価していたのかを明らかにする。また、従来の『荘子』訳注書において、この履軒の業績がほとんど視野に入っていないことを指摘するものである。
 令和二年(二〇二〇)六月、藤居氏は、大阪大学に提出した博士学位論文に基づき、『懐徳堂儒学の研究』(大阪大学出版会)を刊行した。中井竹山・履軒を中心に、懐徳堂儒学の立場とその特色を思想史的に解明する画期的な業績であったが、藤居氏は、もともと学生時代には老荘思想に興味を抱いていたという。履軒の『荘子雕題』に着目したのは、そのような背景があったからである。
 この論考では、具体的な履軒の注釈例をあげながら、それらがきわめて高い水準にあったことを明らかにする。例えば、田(でん)子(し)方(ほう)篇の有名な一節。孔子と老子が会見したという故事で、通行本は、老子の風貌を「堀(くつ)として槁(こう)木(ぼく)の若(ごと)し」と記し、老子の言を「至(し)陰(いん)は粛(しゅく)粛(しゅく)たり、至(し)陽(よう)は赫(かく)赫(かく)たり。粛粛は天より出て、赫赫は地より発す」と記す。しかし、「堀」では意味が通じにくく、陰の極致である「粛粛」が「天」から生じ、陽の極致とされる「赫赫」が「地」に発するというのも理解しがたい。そこで履軒の『雕題』は、「堀」は「崛」(一つだけ高くそびえ立つさま)の意であり、また、「天」「地」を入れ替えてこそ意味が通じるので、伝写の過程で書き誤ったものだと指摘するのである。きわめて合理的で明快な注釈である。
 これについて近現代の訳注書は、近年の中国人学者にそうした説があることを紹介するばかりで、それよりはるか以前に提起された履軒の説を引かない。江戸時代の漢学者による『荘子』研究のレベルは低いという思い込みから、履軒の見解がまったく視野に入っていないのである。『荘子』の訳注書は日本の主要出版社の文庫本としても多く刊行されているが、そこに履軒の説が引かれることはほとんどない。
 明治維新以降、それまでの漢学が新たな中国学・東洋学へと再編され、近代的な研究が推進された。それは多くの偉大な業績を生んだが、一方では、江戸時代までの漢学の伝統を忘れ去るという負の一面もあった。近現代の学者たちが自身の創見だと得意げに語る内容も、実は、すでに江戸時代の漢学者が述べているという場合もある。履軒の『荘子雕題』はまさしくその実例なのである。
 では、それならばなぜ、履軒の『荘子雕題』は見過ごされてきたのか。その最大の理由は、これが写本として伝わるのみで、活字翻刻して刊行されることがなかったからであろう。明治時代に懐徳堂の復興運動を進めた漢学者・ジャーナリストの西村天囚は、「凡(およ)そ書物が写本で置かれるのは未開国の証拠である」と喝破している(『朝日講演集』所収「大阪の威厳」、一九一一年)。
 日本には手書きの写本をありがたがる風潮もあるが、それでは一部の好事家にしか知られず、学問が普及していかないのである。履軒は、自身の業績を誇るような人ではなかったから、刊行ということは考えなかったのかもしれない。しかし、その本に真の学術的価値があるのなら、後世の研究者は、それを歴史の淵から救い出し、世に広める責務があると言えよう。
 『荘子雕題』はその価値を有する履軒の業績である。そして、懐徳堂儒学と老荘思想との両方に精通した藤居氏こそ、それを現代によみがえらせることのできる適任者ではなかろうか。いつか『荘子雕題』の全容を、平易な訳注書の形で刊行していただきたいと願う。