懐徳堂研究情報

「懐徳堂研究情報」は、一般財団法人懐徳堂記念会からの依頼により、懐徳堂研究会メンバーが作成する研究情報で、毎年、雑誌『懐徳』に掲載するものです。また、懐徳堂記念会の許可を得て、雑誌『懐徳』の刊行と同時に、このホームページでも速報として公開します。
 情報の追加や訂正なども随時このホームページで行います。加筆修正箇所はオレンジ色で示しています。

現在、『懐徳』第92号(2024年1月31日刊行)・第93号(2025年1月31日刊行)・第94号(2026年1月31日刊行)に掲載された研究情報を公開しています。お気づきのことがありましたら、こちら(huaidetang2000★gmail.com ★を@に)までメールにてご連絡をお願いします。

【平成二十九年(二〇一七)】
【平成三十年(二〇一八)】
【令和元年(二〇一九)】
【令和二年(二〇二〇)】
【令和三年(二〇二一)】
【令和四年(二〇二二)】
【令和五年(二〇二三)】
【令和六年(二〇二四)】NEW
批評・紹介
【第92号】池田光子 竹田健二 湯浅邦弘
【第93号】佐野大介 久米裕子 藤居岳人
【第94号】藤居岳人 中村未来 荒川兼汰NEW

 

 

  懐徳堂研究情報欄の新設について

湯浅邦弘

 

 昭和五十八年(一九八三)、『懐徳』第五十二号に「懐徳堂関係研究文献提要(一)」が掲載された。以後、毎年回を重ね、昨年刊行の第九十一号で通算三十八回を数えている。原則として、前年または近年発表された懐徳堂関係の論文数点を取り上げて、その概要を簡潔に紹介してきた。現在のように電子化が進んでいなかった当時は、紙媒体で論文を読むほかはなく、取り寄せが困難なものもあったことから、こうした提要は研究情報として比較的貴重なものであった。
 しかし近年、多くの雑誌が電子公開を進めており、直接電子版を確認することも可能となりつつある。またこれまでは、主として大阪大学中国哲学研究室の大学院生が草稿を執筆し、教員の指導を経て定稿としてきたが、その体制の維持も困難となったことから、このたび懐徳堂記念会より、新たな誌面作りについて依頼があった。
 これを受けて懐徳堂研究会が中心となり、「懐徳堂研究情報」と改称した上で継承することとした。内容は、これまでの「提要」とは異なり、「論著リスト」と「批評・紹介」とで構成する。
 「論著リスト」については、原則として前年度に発表された関係論著の一覧を掲げるが、今号のみ特別に近六年分を一挙掲載する。また、「批評・紹介」は、このリスト中のものを含む比較的近年に発表された論著について、批評または紹介するものである。『懐徳』読者への情報提供を目的とするため簡潔平易な内容とし、本格的な書評については別途、『懐徳』または他誌への掲載を検討する。
 しばらくは手探りの状況が続き、書式も一定しないことが予想されるが、読者諸氏のご意見を賜りながら改善していきたい。今号(第92号)については、「論著リスト」を湯浅邦弘、六車楓が担当し、「批評・紹介」は、池田光子、竹田健二、湯浅邦弘の三名が担当した。
 なお、現在、『懐徳』は各号発行の三年後から電子版を公開することとなっているが、この研究情報のみは速報としての意味合いもあるので、懐徳堂記念会の了解を得て、紙版の発行と同時に、懐徳堂研究会のホームページ(https://www.kaitokudo-kenkyukai.org/)にも掲載している。リストに誤脱などがあった場合には、このホームページの連絡先までお知らせいただければ幸いである。修正情報も逐次このホームページで公開したい。
 

懐徳堂研究情報(1)
論著リスト 平成二十九年(二〇一七)~令和四年(二〇二二)
湯浅邦弘、六車楓

【凡例】
・毎年一月から十二月までを区切りとして、各年ごとに[著書]と[論文・その他]とに分けて記載する。
・同一年内は、それぞれ執筆者の五十音順とし、[著書]については、著者・タイトル・出版社名、[論文・その他]については、執筆者・タイトル・掲載誌名を記す。
・[著書]は、直接懐徳堂に関わるものはもちろん、間接的にでも懐徳堂研究に資するものは広く取り上げることとした。また、書評が出ているものについては、その情報を直後の→以下に附記する。
・[論文・その他]で、この論著リスト刊行時点において電子版が無料公開されているものについては、末尾に☆印を付ける。但し、個別のURLは記載しないので、閲覧する際にはインターネットで検索していただきたい。
・サブタイトル前後の表記の仕方は論著により様々であるが、ここではすべてメインタイトルの後に「―」を付けることで統一した。
・数字の表記は、縦書に合わせて漢数字とする。
・漢字の表記は原則として現代日本の通用字体とする。中国語の繁体字・簡体字も同様に改める。
【平成二十九年(二〇一七)】
[著書]
・陶徳民『日本における近代中国学の始まり―漢学の革新と同時代文化交渉』(関西大学出版部)
[論文・その他]
・井上了「明治における『通語』―南朝正統論者としての中井履軒」(『懐徳』第八十五号)
・神田裕子「寛政九年の中井竹山―早稲田大学図書館所蔵「中井竹山書簡 尾藤二洲宛」解題・翻刻・影印」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・黑田秀教「尽くは書を信ぜざる儒者―中井履軒の経書観」(『台大日本語文研究』第三十三期)
・佐藤由隆「五井蘭洲と中井履軒の格物致知論」(『東アジア文化交渉研究』第十号)
・佐藤由隆「懐徳堂学派の知行論」『日本中国学会報』(第六十九号)
・佐野大介「生日における孝の系譜」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動―中井甃庵・五井蘭洲を中心に」(『懐徳』第八十五号)
・白井順「懐徳堂教授・吉田鋭雄と蜀人・査体仁『学庸俗話』」(『中国研究集刊』第六十三号)☆
・竹田健二「中井木菟麻呂が受け継いだ懐徳堂の遺書遺物―小笠原家に預けられたものを中心に」(『中国研究集刊』第六十三号)☆
・竹田健二「懐徳堂文庫新収資料中の太田源之助旧蔵資料」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・竹田健二「西村天囚の五井蘭洲研究と関係資料―『蘭洲遺稿』・『鶏肋篇』・『浪華名家碑文集』について」(『懐徳』第八十五号)
・築山桂「近世大坂の学問所(第3回)適塾と懐徳堂」(『やそしま』第十一号)
・寺門日出男「五井蘭洲『非伊編』について」(『懐徳』第八十五号)
・西尾章治郎「懐徳堂について思うこと」(『懐徳』第八十五号)
・西岡幹雄、仲北浦淳基「「固寧」理念と地域的紐帯―社倉の制度化をめぐって―中井竹山と小西惟冲」(『経済学論叢』第六十八号)
・野口眞戒「『三彝訓』における神儒仏一致の思想について」(『待兼山論叢哲学篇』第五十一号)
・藤居岳人「尾藤二洲の朱子学と懐徳堂の朱子学と」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・藤居岳人「中井履軒にとっての「命」―『論語逢原』の程注批判から」(『懐徳堂学派における儒教の展開に関する研究』)(『懐徳堂研究第二集』掲載)
・矢羽野隆男「幕末懐徳堂の情報環境―島津久光の率兵上洛を中心に」(『懐徳』第八十五号)
・矢羽野隆男「山本竹園・竹渓墓誌銘訳注―近代大阪における儒学者の交流一斑」(『四天王寺大学紀要』第六十三号)
・矢羽野隆男「大成会の釈奠―藤沢南岳と山本梅崖と」(関西大学東西学術研究所〈関西大学東西学術研究所研究叢刊56〉『泊園書院と漢学・大阪・近代日本の水脈―関西大学創立一三〇周年記念泊園書院シンポジウム論文集』)(関西大学出版部)
・湯浅邦弘「幕末の漢文力―ロシア軍艦来航始末」(『温故叢誌』第七十一号)
・湯城吉信「五井持軒『和語集解』翻刻」(『懐徳堂研究』第八号)☆
・湯城吉信「『滑稽叢話』に見る辛亥革命前後の中国―知られざる懐徳堂文庫の魅力」(『懐徳』第八十五号)
【平成三十年(二〇一八)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇七』(関西大学出版部)
・竹田健二編著『懐徳堂研究第二集』(汲古書院)
・森和也『神道・儒教・仏教─江戸思想史のなかの三教』(ちくま新書)
 →(書評)野口眞戒「書評 森和也著『神道・儒教・仏教―江戸思想史のなかの三教』」(『懐徳』第八十九号、二〇二一年)
・横山俊一郎『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』(清文堂出版)
 →(書評)松川雅信「横山俊一郎著『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』」(東アジア思想文化研究会『東アジアの思想と文化』第十号、二〇一九年)
[論文・その他]
・池田光子「懐徳堂アーカイブ講座の再開」(『懐徳』第八十六号)
・笠井哲「山片蟠桃『夢の代』における大宇宙観について」(『研究紀要』第五十九号)
・椛島 雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(1)」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・黒田秀教「五井蘭洲「兵論」について」(『中国研究集刊』第六十四号)☆
・黑田秀教「中井履軒の服喪説―『服忌図』と「擬服図」との成立過程及びその特色」(『懐徳堂研究第二集』)
・黑田秀教「懐徳堂無鬼論の再検討―祖霊を軸にして」(『東方宗教』第一三一号)
・佐藤由隆・河野光将「懐徳堂関連新収(二〇一六)資料暫定目録」(『懐徳』第八十六号)
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動(2)中井竹山・履軒を中心に(上)」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・佐藤由隆「五井蘭洲の「敬」論についての一考察」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・清水光明「「草茅危言」の書誌学的考察―懐徳堂文庫所蔵の竹山自筆本の検討から」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・竹田健二「西村家所蔵資料中の一枚の集合写真について」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・寺門日出男「中井蕉園の漢詩文集について―並河寒泉撰『壎集』をめぐって」(『懐徳』第八十六号)
・藤居岳人「江戸時代における儒者の朝廷観―中井竹山、新井白石らを例として」(『懐徳堂研究』第九号)☆
・藤居岳人「儒者と寛政改革と」(『懐徳堂研究』第二集)
・宮川康子「富永仲基と慈雲―近世仏教改革運動はなぜ起こったか」(『現代思想』第四十六号)
・矢羽野隆男、池田光子「『並河潤菊家傳遺物目録』翻刻(増訂版)」(『懐徳堂研究』第九号)
・湯浅邦弘、竹田健二、佐伯薫「西村天囚関係資料調査報告―種子島西村家訪問記」(『懐徳』第八十六号)
・湯浅邦弘「懐徳堂文庫所蔵「版木」のデジタルアーカイブ」(『懐徳堂研究』第二集)
・湯城吉信「懐徳堂における漢作文実習」(『中国研究集刊』第六十四号)☆
・横山俊一郎「山口県宇部地域における泊園書院出身者の事業活動の一考察―渡辺祐策を支えた名望家を中心に」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五十一号)
【令和元年(二〇一九)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇八』(関西大学出版部)
・陶徳民『西教東漸と中日事情―拝礼・尊厳・信念をめぐる文化交渉』(関西大学出版部)
 →(書評)山村奨「中国と日本、西洋、多様性へ」(東方書店『東方』四七〇号、二〇二〇年四月)☆
・牧角悦子・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第一巻 漢学という視座』(戎光祥出版)
[論文・その他]
・池田光子「種子島西村家所蔵西村天囚関係資料の整理状況と特徴とについて」(『懐徳』第八十七号)
・殷暁星「寛政期における清聖諭の受容―和刻『聖諭広訓』の成立・講釈と懐徳堂知識人」(『立命館文學』第六六〇号)
・椛島雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(2)」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・黑田秀教「中井竹山に見る懐徳堂の漢作文―達意を軸として」(『新しい漢字漢文教育』第六十八号)
・黑田秀教「五井蘭洲『鶏肋篇』所収「駁太宰純赤穂四十六士論」について」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・佐藤秀俊「中井履軒『論語逢原』における「専言之仁」「偏言之仁」」(『言語文化研究科紀要』第五号)
・佐藤由隆(劉瑩訳)「知行並進論的系譜」(『朱子学研究』第三十三輯)
・佐野大介「懐徳堂の孝子顕彰運動(3)中井竹山・履軒を中心に(下)」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・白井順「西村天囚の門人・岡山源六―その中国貴陽時代を中心に」(『懐徳』第八十七号)
・竹田健二「西村天囚の懐徳堂研究とその草稿―種子島西村家所蔵西村天囚関係資料調査より」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・竹田健二「種子島西村家所蔵資料三点に見る西村天囚と重建懐徳堂」(『懐徳』第八十七号)
・森川潤「懐徳堂における町人の学問」(『広島修大論集』第六十号)
・湯浅邦弘「日本の中国学研究と四庫全書」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・湯浅邦弘「西村天囚の知のネットワーク―種子島西村家所蔵資料を中心として」(『懐徳』第八十七号)
・湯浅邦弘「平成三十年度(二〇一八)種子島西村天囚関係資料調査について」(『懐徳』第八十七号)
・湯城吉信「懐徳堂末期の漢文教育―並河寒泉『課蒙復文原文』、並河蜑街『復文草稿』を中心に」(『大東史学』第一号)
・湯城吉信「大阪府立中之島図書館蔵「五井蘭洲講義筆記」の抄者について」(『懐徳堂研究』第十号)☆
・湯城吉信「柿衞文庫所蔵の懐徳堂ゆかりの絵画―その画賛を読む」(『中国研究集刊』第六十五号)☆
【令和二年(二〇二〇)】
[著書]
・江藤茂博・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第二巻 漢学と漢学塾』(戎光祥出版)
・江藤茂博・加藤国安編『講座近代日本と漢学第五巻 漢学と教育』(戎光祥出版)
・江藤茂博編『講座近代日本と漢学第八巻 漢学と東アジア』(戎光祥出版)
・佐藤進・小方伴子編『講座近代日本と漢学第七巻 漢学と日本語』(戎光祥出版)
・清水光明『近世日本の政治改革と知識人―中井竹山と「草茅危言」』(東京大学出版会)
 →(書評)藤居岳人「清水光明著『近世日本の政治改革と知識人―中井竹山と「草茅危言」』」(『懐徳』第九十号、二〇二二年)
・藤居岳人『懐徳堂儒学の研究』(大阪大学出版会)
 →(書評)池田光子「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『週刊読書人』第三三六六号、二〇二〇年)
 →(書評)竹田健二「書評:藤居岳人『懐徳堂儒学の研究』」(『図書新聞』三四七九号、二〇二一年一月十六日)
 →(書評)黒住真「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『日本歴史』二〇二一年十一月号)
 →(書評)寺門日出男「藤居岳人著『懐徳堂儒学の研究』」(『懐徳堂研究』第十三号、二〇二二年)
・牧角悦子・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第四巻 漢学と学芸』(戎光祥出版)
・町泉寿郎編『講座近代日本と漢学第三巻 漢学と医学』(戎光祥出版)
・藪田貫『武士の町 大坂』(講談社学術文庫)
・山口直孝編『講座近代日本と漢学第六巻 漢学と近代文学』(戎光祥出版)
・湯浅邦弘編著『儒教の名句―『四書句辨』を読み解く』上巻(汲古書院)
・湯浅邦弘著・白雨田訳『懐徳堂研究』(四川大学出版社)
[論文・その他]
・足達新「懐徳堂と万博」(『懐徳』第八十八号)
・天野聡一「五井蘭洲の和学―『勢語通』の改稿過程を通して」(『国語と国文学』第九十七号)
・井上克人「仁斎・徂徠・仲基における漢籍の解釈学」(『東アジア文化交渉研究』第十三号)
・井上了「三木通明旧蔵の中井竹山自筆本『蒙養篇』について」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・王鑫「中井履軒的心性論―以《孟子逢原》為中心」(『東アジア文化交渉研究 』第十三号)
・椛島雅弘「五井蘭洲『蘭洲先生老子経講義』翻刻(3)」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・菊池孝太朗・六車楓「中井竹山の歴史観と元号観と―『草茅危言』巻之一「年号ノ事」を手掛かりに」(『懐徳』第八十八号)
・黑田秀教「懐徳堂の統治論―徂徠学との思想的接続」(『日本中国学会報』第七十二集)☆
・佐藤秀俊「中井履軒『論語逢原』におけるコンテクスト理解の特質」(『文教大学国文』第四十九号)
・佐藤由隆「中井竹山の文章観―懐徳堂の「博約並進」」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・佐野大介「北山文庫蔵『孝子彦太夫伝』について附翻刻」(『懐徳堂研究』第十一号)☆
・竹田健二「重野安繹と中井木菟麻呂―『黄裳斎日記』を中心に」(『国語教育論叢』第二十七号)☆
・藤居岳人「龍野藩の儒者と中井竹山と」(『懐徳』第八十八号)
・北京外国語大学北京日本学研究中心編『日本学研究』第三十輯「日本儒学与懐徳堂研究専欄」
 ・高橋恭寛・許家晟「日本陽明学派与懐徳堂諸儒者的思想交雑」
 ・清水則夫・崔鵬偉「懐徳堂朱子学之変遷―五井蘭洲与中井竹山」
 ・浅井雅・許家晟「懐徳堂与西部諸藩的儒者―以龍野藩為中心」
・宮川康子「仁斎古義学の革命性―有鬼と無鬼の系譜」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第二十五号)
・湯浅邦弘「西洋近代文明と向き合った漢学者―西村天囚の「世界一周会」参加」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第六十巻)☆
・湯城吉信「「採蓮図」と「源義家望雁図(騎馬武者図)」―懐徳堂文庫蔵の雛人形と五月人形と」(『懐徳』第八十八号)
・横山俊一郎「住友家の人々と泊園書院―『南汀遺稿』の考察を中心として」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五十三号)
・劉宇昊「中井履軒の理論構造における外在性概念―『孟子逢原』の「徳」と「悪」の解釈を中心に」(『研究東洋―東日本国際大学東洋思想研究所・儒学文化研究所紀要』第十号)
【令和三年(二〇二一)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇九』(関西大学出版部)
・陶徳民『もう一つの内藤湖南像―関西大学内藤文庫探索二十年』(関西大学出版部)
・陶徳民ほか編著『The Tokugawa World(徳川世界)』(ラウトレッジ)
・湯浅邦弘編著『儒教の名句―『四書句辨』を読み解く』下巻(汲古書院)
・湯浅邦弘編集・解説『西村天囚『論語集釈』』(大阪大学大学院文学研究科)
[論文・その他]
・池田光子「第二次新田文庫について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・佐藤由隆(劉瑩訳)「日本懐徳堂学派的博約並進―以中井竹山為中心」(『日本哲学与思想研究』二〇一八―二〇一九巻)
・竹田健二・湯浅邦弘・池田光子「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定目録(遺著・書画類等)」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・竹田健二「「碩園先生著述目録」と現存資料について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・寺門日出男「京都学問所復興計画と懐徳堂」(『懐徳』第八十九号)
・宮川康子「懐徳堂の中庸解釈」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第二十六号)
・湯浅邦弘「小宇宙に込めた天囚の思い―種子島西村家所蔵西村天囚旧蔵印について」(『懐徳堂研究』第十二号)☆
・湯浅邦弘「西村天囚『欧米遊覧記』と御船綱手「欧山米水帖」―明治四十三年「世界一周会」の真実」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第六十一号)☆
・湯浅邦弘「懐徳堂の復興と西村天囚―「世界一周会」の歴史的意義」(『懐徳』第八十九号)
・湯城吉信「懐徳堂文庫所蔵「象背宴集図」に見える西洋の影」(『大東文化大学紀要(人文科学)』第五十九号)
【令和四年(二〇二二)】
[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成日本篇十』(関西大学出版部)
・吾妻重二監修、横山俊一郎著『泊園書院の人びと―その七百二人』(清文堂出版)
 →(書評)藪田貫「吾妻重二監修横山俊一郎著『泊園書院の明治維新―政策者と企業家たち』(『図書新聞』二〇二二年十二月三日)
 →(書評)読売新聞「江戸後期から戦後の私塾「泊園書院」輩出、702人紹介」(二〇二二年十月三十日)☆
・呉谷光充『町人都市の誕生―いきとすい、あるいは知』(中央公論美術出版)
・澤井啓一『伊藤仁斎―孔孟の真血脈を知る』(ミネルヴァ書房)
・陶徳民『内藤湖南の人脈と影響―関西大学内藤文庫所蔵還暦祝賀及び葬祭関連資料に見る』(関西大学出版部) 
 →(書評)竹元規人『中国研究月報』第七十七巻第五号(二〇二三年五月)
・陶徳民著、辜承堯訳『日本近代中国学的形成―漢学革新与文化交渉』(江蘇人民出版社、前出『日本における近代中国学の始まり―漢学の革新と同時代文化交渉』の中国語版)
・藪田貫『大塩平八郎の乱―幕府を震撼させた武装蜂起の真相』(中公新書)
 →(書評)今谷明「新史料を徹底調査、大塩平八郎の乱の真相を解明した労作」(『週刊エコノミスト』二〇二三年二月七日号)
・湯浅邦弘編著『よくわかる中国思想』(ミネルヴァ書房)
・湯浅邦弘編集・解説『西村天囚旧蔵印』(大阪大学人文学研究科)
・湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』(KADOKAWA)
 →(新刊ガイド)『本の雑誌』四六六号(二〇二二年三月十日)
 →(書評)山陽新聞「明治の世界一周、鮮明に」(二〇二二年四月十七日)
 →(書評)日本経済新聞「明治末期の旅行と漢学思想」(二〇二二年四月二日)
 →(書評)陶徳民「西村天囚と重建懐徳堂に関する研究の新生面を開いた好著―湯浅邦弘著『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』」(『懐徳堂研究』第十四号、二〇二三年二月)
[論文・その他]
・黑田秀教「幻の中井履軒撰『修辞通』―帆足万里『修辞通』の懐徳堂文庫蔵写本について」(『懐徳』第九十号)
・黑田秀教「帆足万里『修辞通』の江戸時代写本の翻刻および解説」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「西村天囚の懐徳堂研究と『拙古先生筆記』」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定目録(遺著・書画類等)補訂(拓本類)」(『懐徳堂研究』第十三号)
・竹田健二「翻刻 西村天囚著『懐徳堂考之一』(その一)」(『島根大学教育学部紀要』第五十五号)☆
・谷口洋「西村天囚『屈原賦説』にみる漢学の近代」(『超域文化科学紀要』第二十七号)☆
・西田正宏「大坂の学芸史―円珠庵から懐徳堂へ」(大阪公立大学現代システム科学域編『大学的大阪ガイド』)
・前川知里「翻刻 藤澤南岳『七香齋日録』(3)」(『書道学論集 大東文化大学大学院書道学専攻研究誌』第十九号)☆
・町泉寿郎「湯島聖堂と漢学の近世近代(懐徳堂秋季特別講座「湯島聖堂と懐徳堂」)」(『懐徳』第九十号)
・山路孝司「国立国会図書館所蔵 頼山陽旧蔵『生駒山人詩集』について―詩稿と思われる頼山陽の書き入れを中心に」(『懐徳』第九十号)
・湯浅邦弘「大阪文化の力―懐徳堂の歴史と意義(懐徳堂秋季特別講座「湯島聖堂と懐徳堂」)」(『懐徳』第九十号)
 

懐徳堂研究情報(2)
論著リスト 令和五年(二〇二三)
佐野大介、椛島雅弘

[著書]
・吾妻重二編著『家礼文献集成 日本篇 十一』(関西大学出版部)
・陳致著、湯浅邦弘監訳、湯城吉信・古賀芳枝・草野友子・中村未来訳『『詩経』の形成─儀礼化から世俗化へ』(東方書店)
→(書評)牧角悦子「『詩経』研究への新視点」(「WEB東方」二〇二三年十二月)☆
→(書評)藪敏裕「陳致『『詩経』の形成 儀礼化から世俗化へ』」(『中国出土資料研究』第二十八号、二〇二四年七月)
・塘耕次著『中井履軒『周易逢原』と朱子『周易本義』』(汲古書院)
・陶徳民編著『内藤湖南研究の最前線―国際シンポジウム論文集』(関西大学出版部)
・陶徳民・吾妻重二・永田知之編『中国学の近代的展開と日中交渉』(アジア遊学第二九二号、勉誠社)
[論文・その他]
・吾妻重二「日本における『家礼』式儒墓について―東アジア文化交渉の視点から(四)」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五十六号)☆
・吾妻重二「蟹養斎の『家礼』関連著述とその特色」(『東アジア文化交渉研究』第十六号)☆
・吾妻重二「石濱純太郎散論―石濱と橋川時雄、学位論文、エリセーエフ」(玄幸子編著『国際シンポジウム論文集 内藤湖南と石濱純太郎 近代東洋学の射程―内藤・石濱両文庫収蔵資料を中心に』、関西大学出版部)
・吾妻重二「馬鬣封について―儒式墓の一例」(二階堂善弘編著『東アジアの思想・芸術と文化交渉』、関西大学東西学術研究所)
・荒川兼汰「中井履軒『左伝逢原』に於ける「擬経」「擬伝」説」(『名古屋大学中国哲學論集』第二十二号)
・池田光子「瀧川資言と西村天囚―西村家資料を用いた一考察」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・稲森雅子「清華大学教授銭稲孫の重建懐徳堂訪問記念写真について」(『懐徳』第九十一号)
・井上了「中井履軒『典謨接』排印本(『松雲堂娯刻書』第五、昭和十二年)」(『懐徳』第九十一号)
・久米裕子「中井履軒『通語』諸注釈書小考―その特色と漢文教材としての可能性について」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・黑田秀教「懐徳堂学派の『論語』首章解釈―「時に之れを習ふ」の理解」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・佐藤由隆「懐徳堂学派の「敬」論―「敬」の無対象性について」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・杉山一也「『論語逢原』雍也篇「伯牛有疾」章における伯牛の病臥位置について」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・竹田健二「西村天囚と含翠堂」(『懐徳』第九十一号)
・竹田健二・湯浅邦弘・池田光子「旧西村家所蔵西村天囚関係資料目録―鉄砲館・黎明館に現存する資料について」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・竹田健二「西村天囚『懐徳堂資料』の成立事情と『奠陰集』」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・竹田健二「翻刻 西村天囚著『懐徳堂考之一』(その二)」(『島根大学教育学部紀要』第五十六号)☆
・竹田健二「武内義雄と吉田鋭雄―重建懐徳堂講師の留学と西村天囚」(陶徳民・吾妻重二・永田知之編『中国学の近代的展開と日中交渉』アジア遊学第二九二号、勉誠社)
・堤一昭「『景社紀事』簡介および影印」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・陶徳民「富岡謙蔵研究の現状と展望に関する覚書―内藤文庫所蔵資料の利用価値に触れて」(二階堂善弘編著『東アジアの思想・芸術と文化交渉』、関西大学東西学術研究所)
・陶徳民「書評 西村天囚と重建懐徳堂に関する研究の新生面を開いた好著 ―湯浅邦弘著『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・陶徳民「書評 袁英明著『京劇名優・梅蘭芳と日本』」(『渋沢研究』第三十五号)
・陶徳民「「欧西と神理相似たる」東洋の学問方法論の発見を求めて―内藤湖南における章氏顕彰と富永顕彰の並行性について」(陶徳民・吾妻重二・永田知之編『中国学の近代的展開と日中交渉』アジア遊学第二九二号、勉誠社)
・陶徳民・銭婉約「内藤湖南研究文献目録(中国語・英語)」(『東アジア文化交渉研究』第十六号)☆
・陶徳民・町泉寿郎「近代の漢学者・ジャーナリスト 西村天囚書簡の紹介」(『二松学舎大学図書館季報』第一一五号)
・陶徳民「『内藤湖南の人脈と影響』編集記―礪波護・高田時雄両先生の助言にふれて」(『湖南』第四十三号)
・陶徳民「内藤湖南の人脈、思想と影響―還暦前後から一周忌までを中心に」(玄幸子編著『国際シンポジウム論文集 内藤湖南と石濱純太郎 近代東洋学の射程――内藤・石濱両文庫収蔵資料を中心に』、関西大学出版部)
・西田正宏「山崎文庫・森文庫の魅力と課題―大阪公立大学蔵古典籍の資料性」(『大阪公立大学大学史紀要』第一号)
・野口眞戒「日本の近世戒律復興運動における儒学とのかかわり」(大阪大学博士論文(文学))☆
・藤居岳人「江戸時代の『荘子』研究の評価―中井履軒撰『荘子雕題』を題材に」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・町泉寿郎「二松学舎所蔵の西村天囚関係資料にみる古典講習科の人々の交流」(『東アジア学術総合研究所集刊』第五十三号)☆
・町泉寿郎「近世・近代日本における孔子祭祀―湯島聖堂の近世近代」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・宮川康子「『出定笑語』と『出定後語』」(『現代思想』第五十一号)
・矢羽野隆男「西村天囚『論語集釈』と『論語後案』書入れと」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・湯浅邦弘「大阪市公会堂壁記の成立―近代文人の相互研鑽について」(『中国研究集刊』第六十九号)☆
・湯浅邦弘「懐徳堂の講義と蔵書」(『懐徳』第九十一号)
・湯浅邦弘「懐徳堂の孔子祭」(『懐徳堂研究』第十四号)☆
・湯浅邦弘「遺墨に見る漢学の伝統―前田豊山・西村天囚の書」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』第六十三号)☆
・劉宇昊「中井履軒の人情論」(『思想史研究』第三十号)

 

懐徳堂研究情報(3)
論著リスト 令和六年(二〇二四)
佐野大介、黑田秀教

[著書]
・湯浅邦弘『近代人文学の形成―西村天囚の生涯と業績』(汲古書院)
・湯浅邦弘・竹田健二『石碑に学ぶ種子島の歴史―鉄砲伝来四百八十周年―西村天囚没後百年記念』(西之表市企画課歴史文化活用係)
・湯城吉信『五井蘭洲著『承聖篇』翻刻・注釈―江戸時代の儒者による仏教批判』(汲古書院)
[論文・その他]
・吾妻重二「日本における『家礼』式儒墓について―東アジア文化交渉の視点から(五)」(『関西大学東西学術研究所紀要』第五七号)☆
・荒川兼汰「東条一堂『左伝標識』の新写本―『左伝経解』の書誌的考察」(『名古屋大学中国哲学論集』第二三号)☆
・荒川兼汰「中井履軒『左氏雕題』『左氏雕題略』『左伝逢原』の比較と変遷と」(『名古屋大学中国哲学論集』第二三号)☆
・稲森雅子「劉文典による日中学術交流―重建懐徳堂訪問と『荘子補正』」(『中国文学論集』第五三号)☆
・池田光子「書評 長く、短い旅―湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』を楽しむ」(『懐徳』第九二号)
・池田光子「第二次新田文庫暫定目録(一)」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・井上了「新城新蔵の『左伝』年代論への若干の疑問」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・黑田秀教「中井履軒『通語』初探―民衆の徳性を中心に」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・項依然「中井履軒《中庸逢原》中的誠論―基於“天道”“人道”視角的考察」(『日本学研究』二〇二四年〇六期)
・小松昌弘「書評「内藤湖南研究の最前線」陶徳民編著」(『湖南』第四四号)
・相良海香子「五井蘭洲の天皇観」(『日本史攷究』第四八号)
・淸水則夫「十八世紀日本の「正名」―朱子学者を中心に」(『東洋の思想と宗教』第四一号)☆
・竹田健二「鉄砲伝来紀功碑文の成立と『碩園文稿』」(『懐徳』第九二号)
・竹田健二「書評 東大古典講習科同期生の学術交流を明らかにする―池田光子「瀧川資言と西村天囚―西村家資料を用いた一考察」」(『懐徳』第九二号)
・竹田健二「西村天囚撰「豊山前田先生紀徳碑」と『碩園文稿』」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・竹田健二「翻刻 西村天囚著『懐徳堂考之一』(その三)」(『島根大学教育学部紀要』第五七号)☆
・張捷「中井履軒《孟子逢原》対心性論的詮釈」(『哲学研究』二〇二四年一〇期)
・陶徳民「文化講演会最近二十年間における関西大学の湖南研究について」(『湖南』第四四号)
・陶徳民「シンポジウム内藤湖南にみる近代日本東洋学の特質―歿後九〇周年を記念して」(『東方学会報』第一二六号)
・藤居岳人「江戸時代の『荘子』研究の評価―中井履軒撰『荘子雕題』を題材に(続)」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・町泉寿郎「資料紹介 西村天囚日記(種子島西村家所蔵)の解題と翻刻」(『二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊』第五四号)☆
・山本嘉孝「近世日本の「文会」と漢文作文―古義堂から昌平坂学問所まで」(『国語と国文学』第一〇一巻三号)
・山本嘉孝「柴野栗山の復古論―江戸幕府の儒臣と朝廷の文物」(『古典の再生』(文学通信))
・湯浅邦弘「白虹事件と西村天囚」(『懐徳』第九二号)
・湯浅邦弘・六車楓「論著リスト平成二十九年(二〇一七)~令和四年(二〇二二)」(『懐徳』第九二号)
・湯城吉信「五井蘭洲による伊藤仁斎批判―『非伊編』(総論部)翻刻・訳注」(『懐徳堂研究』第一五号)☆
・李悳薰「近世日本の享保時代における懐徳堂と心学講舎の登場の再検討」(『三田商学研究』第六七巻三号)
・劉欣佳「中井竹山『詩律兆』考―その歴史的意義を中心に」(『日本中国学会報』第七六集)

 

批評・紹介

 

長く、短い旅―湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む』を楽しむ―

池田光子
 
 
一、旅のはじめに
 本書は、朝日新聞社主催「第二回世界一周会」の旅を紹介したものである(注1)。約四センチに及ぶ本書の背幅を見て、「世界一周をするだけに、読書の旅も長くなりそうだ」、そう思う人もいるかもしれない。筆者もその一人であった。しかし、その予想は大きく外れ、ほんの数日で旅は終わってしまった。夢中になって読んでしまったのである。
 読書による旅は数日であったが、実際の旅の期間は、明治四十三(一九一〇)年四月六日から同年七月十八日までの百四日間と長い。参加者は総勢五十七名。この百四日間の旅に、朝日新聞社の特派社員の一人として参加していたのが、『欧米遊覧記』の主著者・西(にし)村(むら)天(てん)囚(しゅう)(一八六五~一九二四)である。
 西村天囚は、現在の鹿児島県西之表市出身の漢学者・ジャーナリスト。幼い頃より漢文を学び、上京して東京大学古典講習科の漢書課に入学。中退後は、「さゝ浪新聞」や『大阪公論』の記者を経て大阪朝日の編集員となり、その漢文力を活かして活躍した。
 天囚たちが電信で日本に送った旅の様子は、数日遅れで東西の朝日新聞に掲載された。この時の紀行を帰国後に編集したものが、『欧米遊覧記』(朝日新聞合資会社、明治四十三年十月)である。この書は、発売直後から増刷を重ねるほど、好評であった(注2)。本書は、この『欧米遊覧記』をベースにして、第二回世界一周会の旅を紹介している。章立ては次のとおり。
一、出発まで 二、出航 三、ハワイ 四、サンフランシスコ 
五、アメリカ大陸横断鉄道 六、アメリカ東海岸の諸都市 
七、イギリス 八、フランス 九、イタリア 十、スイス 
十一、ドイツ 十二、ロシア 十三、シベリア鉄道 十四、帰国 
十五、世界一周会語録 十六、世界一周会のその後 
十七、世界一周会の歴史的意義
 一章から十四章までは、『欧米遊覧記』の記述に沿って、世界一周会の旅の様子が解説・紹介している。解説・紹介にあたっては、読みやすさを考慮し、著者が原文(『欧米遊覧記』の文章)を現代的な表現に置き換えている。十五章では、『欧米遊覧記』に登場する印象深い言葉(十四章までに登場した言葉は除く)をまとめ、原文も付けて解説している。十六章は、天囚を中心に、一周会関係者・関係地のその後が紹介されている。十七章は、「世界一周会」による世界旅行の意義について考察し、まとめた章である。
 著者の大阪大学の湯浅邦弘教授は(注3)、この数年間、天囚に関する研究を続々と発表している。その研究成果や関連する新情報も内容に反映されており、本書の特徴の一つとなっている。このような学術的側面については、既に関西大学の陶徳民名誉教授によって詳しく取り上げられている(注4)。よって本稿では、学術的な面ではなく、旅を短く感じた原因である、本書の文章表現の特徴を紹介していきたい。
二、読者と共に旅する工夫
 自分が見聞した事物について、その事物を全く知らない相手に伝えなければならない時、まず思いつく手法は画像の提示であろう。第二回世界一周旅行では、写真のほか、日本画家の御(み)船(ふね)綱(つな)手(て)(一八七六~一九四一)がその役割を担い、旅先で数多くのスケッチを作成し、帰国後に「欧山米水帖」にまとめた。本書でも御船の絵が多数紹介されている。では、文章での手法はどうだろうか。そこで、天囚の文章(原文)の特徴を見ていきたい。章立てのところで紹介したとおり、原文は十五章にその一部が確認できる。よって、十五章にある原文から三点紹介する。
①漢語の使用
夜は千万点の電(でん)灯(とう)丘より谷に連なりていといと美しく、皓(こう)月(げつ)また桑(そう)港(こう)湾(わん)を照らして、夜景の佳(か)麗(れい)言うべからず
 「皓月」とは白く輝く月のこと。「桑港湾」はサンフランシスコ湾。つまり、サンフランシスコの夜景の美しさについて述べた言葉である。著者はこの文章を「坂の多いサンフランシスコの丘の上から谷の下まで、数知れぬ電灯がきらめき、また白く輝く月がサンフランシスコ湾を照らす。「佳麗」としか言いようのない光景であった」と訳している。著者の訳はとても分かりやすく、これだけでも情景が思い描けるが、原文を読むと、リズム感も兼ね備えていた文章であったことが分かる。「皓月また桑港湾を照らして、夜景の佳麗言うべからず」のところは、まるで七言の漢詩を読んでいるようである。
 前章に記した天囚の経歴から看取できるように、天囚は漢文を得意としていた(注5)。漢語的表現やリズムを取り入れて文章を作ることなど、お手の物であったろう。そして、その意図を受け止められるほど、当時の人々の漢文力が高かったことは、容易に察せられるところである。当時の読者は漢詩のようなリズム感を味わいつつ、鮮やかな光に照らされたサンフランシスコの情景を脳裏に描いていたのであろう。
②日本の風景に擬(なぞら)える
 お互い知っている(であろう)物に喩える方法も、伝達方法として有効である。天囚もその手法を用いており、海外の風景を日本の風景に擬えて伝えようとしている記述が散見される。左はその一つ。
鳩群(むら)がりて食(しょく)を人に求むること浅(あさ)草(くさ)に似たり
 ヴェニスのサンマルコ寺院の広い中庭で見かけた光景を、浅草の様子に重ねて表現した言葉である。「浅草」、「鳩」と言えば、浅(せん)草(そう)寺(じ)の本堂西側にある「鳩ポッポの歌碑」を思い浮かべる人が多いであろう(注6)。童謡「鳩ぽっぽ」は、明治三十三(一九〇〇)年に東(ひがし)くめ(一八七七~一九六九)が、浅草寺の境内で鳩と戯れてる子供たちに着想を得た歌詞である(注7)。作曲は、瀧(たき)廉(れん)太(た)郎(ろう)(一八七九~一九〇三)が担当。天囚もまた、読者の多くが「鳩ぽっぽ」を想像すると予測していたのではないだろうか(注8)。
 サンマルコ寺院と浅草寺は、宗教施設という点で一致するものの、建物の風貌は全く異なる。しかし、人が多く立ち寄る場所であることや、その人々に群がる鳩の様子が共通していたため、この比喩を用いたのであろう。サンマルコ寺院を見たことがない読者にとって、寺院の姿を想像することは難しかったかもしれないが、雰囲気は充分に伝わったのではないかと思われる。
③人を伝える
勝敗の疑わしきときは、潔(いさぎ)よく勝ちを敵に譲って莞(かん)爾(じ)たる其(そ)の態度、真(しん)個(こ)に紳士的なる敬(けい)服(ふく)の至りに堪(た)えず
 大西洋上の船内で、運動会を開催しようとの声が白人からあがった。五月二十一日に開催となり、午前十時半から、二人三脚、卵すくいなどの競技が次々と行われたと言う。この時、記念品として、『国(こっ)華(か)』(注9)や御船綱手自筆の日本画が授与された。この授賞式の際に司会を務めたニューマン氏の挨拶の一部が、この言葉である。該当箇所に対する著者の訳は次のとおり。「(日本の紳士諸君が、)勝敗の微妙なときに、潔く勝ちを敵に譲って莞爾たる(にっこり笑う)その態度、これこそ真の紳士で、敬服の至りである」。
 筆者はこの文章に、天囚が読者に伝えようとした二つの意図があると考えている。一つが、不慣れな旅の中にあっても、世界一周会員が品行方正であったこと。もう一つが、日本人を友好的に評価する外国人の態度である。
 このように、日本人の様子だけではなく、諸外国の人々の様子も伝えようとする天囚の文章については、著者も指摘している。本書二一〇~二一一頁の「正直な給仕長」に、イタリア人給仕長の実直な人柄と人の心のあたたかさを示すエピソードが紹介されている。この解説で著者は、「天囚の紀行がすぐれているのは、諸外国の有名観光地を論ずるだけではなく、こうした庶民の細やかな心情に注目する点である」と指摘する。日米和親条約(一八五四)から半世紀が経過しているとはいえ、日本国内で外国人と接したり、外国の情報と接する機会は少なかったであろう。しかし、旅の前年に起きた伊藤博文暗殺事件や、明治三十七(一九〇四)年の日清戦争などから、日本と世界との関係について、一般の人々も強い関心を持っていたであろうことは、想像に難くない。日本にいる読者達は、諸外国の人々に日本人がどのように受け入れられ、評価されているのか、そしてまた諸外国の人々の人となりはどのようなものなのか等の情報を天囚の言葉から得ていたのであろう。当時の人々の様子を窺うことができる、興味深い記述である。
 以上の①から③が、筆者が紹介する天囚の文章の特徴である。これらの特徴が手助けとなり、当時の読者は世界一周を追体験していたのであろう。しかし、現代の私たちにとっては、天囚の手助けのみでは、旅の追体験が難しいところがある。何故ならば、私たちには当時の人々ほどの漢文力はなく、また、日本の風景で喩えを示されても、百年前と今とでは様相が変わってしまったためである。
 そんな現代の私たちを手助けしてくれているのが、著者の解説である。語句説明はもちろん、当時の世界情勢や地図の提示、絵画の説明や船の名称の出典など、私たちが楽しく旅を共に出来るよう、多くの手助けをしてくれている。その中でも、筆者が注目したのは、「映画」を用いた手助けである。
④現代の私たちへのサポート
 本書三六六頁に、ローマのコロッセオなどの廃墟を見物したときの話が記されている。天囚は、古代ローマの廃墟の様子を「柱(ちゅう)礎(そ)落(らく)々(らく)として、断(だん)碑(ぴ)古(こ)像(ぞう)、又(また)其の間に立ち、処(しょ)々(しょ)の廃(はい)井(せい)には幽(ゆう)草(そう)空(むな)しく茂(しげ)れり(柱や基礎が崩れ石碑や石像はくだけて一部が残り、ところどころの井戸の跡には虚しく草が生い茂っている)」と表現し、栄枯盛衰を感じさせる廃墟の様子を巧みに描出している。
 この解説で著者は、現代の読者のイメージを膨らますため、二つの映画を紹介している。一つが、世界的に有名な映画「ローマの休日」(一九五三)である。続いてもう一つ紹介しているのが、原作の漫画も大ヒットした、「テルマエ・ロマエ」(二〇一二、「テルマエ・ロマエⅡ」は二〇一四)である。前者については、現代よりは天囚に近い時代のローマの観光地を観るために最適な映画であろう。後者は近年の映画ではあるが、廃墟前のローマの様子が感じ取れるとして、著者は紹介している。つまり、現代の読者が旅の追体験がしやすいよう、著者は映画と言うツールを用いているのである。
 なお、双方とも筆者は鑑賞した作品だったので、脳裏に映画のシーンが蘇った。やはり映像資料は力強い手助けである。
 本書は、言うなれば二人の著者が、読者の旅を手助けしてくれている贅沢な紀行文である。だからこそ、長旅を予想させる背幅でありながら、筆者の旅はほんの数日で終わったのであろう。
三、旅のおわりに
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」。中(なか)村(むら)草(くさ)田(た)男(お)(一九〇一~一九八三)の有名な句である。詠まれたのは昭和六(一九三一)年。雪の中で遊ぶ小学生の姿を見て、自分の小学生時代を思い出したら、もう二十年経っているのかとしみじみした気持ちを詠み込んだ歌である。とは言え、この頃はまだ明治は想起可能な時代であったろう。しかし、今や明治は「遠」と言うよりは「古」と言うべき時代になり、手助けがないと想像が難しい時代となってしまった。だが、二十年ほど前までは、まだ「古」の時代とはなっていなかったように筆者は感じている。そのように感じているのは、次の出来事が脳裏に焼き付いているためである。
 大学院生の時、筆者はある未調査資料群を調査していた。その資料群は明治から昭和にかけて活躍したある人物に関連するものであり、日記なども含まれていた。ある日、その資料群の閲覧に来られた方がいた。その方は、貴重な資料が残っていることに驚きと興奮とを示されながらも残念そうな色を滲ませ、「個人的な資料は関係者に迷惑をかけてしまう可能性があるので、公開や引用が難しいですね」と仰った。この言葉は、二十年ほど前までは、明治期の資料が同時代史資料として扱われていたことの表れと言えよう。つまりまだ「遠」だったのである。しかし、今や「古」となったことは、左の著者の言葉から明らかである(傍線は筆者による)。
明治四十三年から百年余りという時間である。百年前とは、すでにそれが同時代史ではなく、歴史的事象として検討できる対象であると言ってよいだろう。同時代では関係者が多すぎて、調べたり書いたりするのが憚れることもある。また、近すぎて逆に見えないこともあろう。(注10)
 著者がこのように言うのは、本書で用いている新資料にも起因するのではないかと筆者は考えている(注11)。この新資料は、天囚の生家である種子島西村家で発見された西村天囚関連資料群、通称「西村家所蔵西村天囚関係資料(以下、「天囚関係資料」と略称)」から発見された資料である。「天囚関係資料」は、平成二九(二〇一七)年から本格的に調査が始まり、現在は暫定目録も公開されている(注12)。筆者も調査に参加し、近代初期を代表する知識人たちとの交流を示す資料が多数含まれた貴重な資料群であることを実見している。中には日記に近い私的な記録もあるため、先述のとおり、二十年ほど前であれば、利用に何かしらの制限がついたかもしれない資料群である。だが、時代は令和になった。制限も解除されたと捉えて良いのではないだろうか。
 今後は、「天囚関係資料」のように、今まで隠れていた近代初期の資料が続々と発見され、本書のように、新資料を用いた近代初期の知識人たちの新たな様相が明らかになるかもしれない。そうなった場合、本書はその先駆け的存在と位置づけても良いのではないだろうか。
 筆者にとって本書は、第二回世界一周会旅行の楽しさだけではなく、その楽しさの土台となっている文章表現や資料の存在についても学ぶことができた書籍だった。実際の旅でも、普段とは異なる体験をすることで、新たな発想や考えを得ることがある。皆さんも是非、本書を通じて天囚たちとの旅を楽しんで頂きたい。

(1)「第一回世界一周会」は二年前の明治四十一(一九〇八)年に開催。
(2)本書四五二頁「なぜ第三回は企画されなかったのか」参照。
(3)現在は大阪大学名誉教授。
(4)書評 西村天囚と重建懐徳堂に関する研究の新生面を開いた好著―湯浅邦弘著『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』(『懐徳堂研究』第十四号、大阪大学大学院人文学研究科・文学部懐徳堂研究センター、令和五(二〇二三)年二月)
(5)天囚の漢詩文は、『碩園先生遺集』(懐徳堂記念会、昭和十一(一九三六)年十月)にまとめられている。
(6)「鳩ぽっぽ」の歌碑は、全国に五箇所ある(JR新宮駅前(和歌山県)、浅草寺(東京都)、善光寺境内(長野県)、五月山公園(大阪府))。
(7)着想を得た場所は、善光寺とする説もある。
(8)明治三十四(一九〇一)年に刊行された『幼稚園唱歌』に収められている。なお、「鳩」とは異なる曲である。
(9)岡倉天心、高橋健三らが創刊し(一八八九年)、東洋及び日本美術の重要作品の紹介・解説や美術史研究などを掲載している月刊美術雑誌。世界最古の美術雑誌とされる。刊行にあたり、朝日新聞社社長の村山龍平の支援があった。
(10)本書一〇頁「新資料、新事実の発見」。
(11)注10と同項参照。
(12)竹田健二、湯浅邦弘、池田光子「西村家所蔵西村天囚関係資料暫定暫定目録(遺著・書画類等)」(『懐徳堂研究』第十二号、大阪大学大学院文学研究科・文学部懐徳堂センター、令和三(二〇二一)年二月)
湯浅邦弘『世界は縮まれり―西村天囚『欧米遊覧記』を読む―』(KADOKAWA、二〇二二年、全五〇七頁、二七〇〇円)

 

東大古典講習科同期生の学術交流を明らかにする

池田光子「瀧川資言と西村天囚―西村家資料を用いた一考察―」(『中国研究集刊』第六十九号、二〇二三年三月)☆
竹田健二
 本論考は、東京大学文学部の古典講習科漢学課の同期生であった瀧川亀太郎(字は資(すけ)言(のぶ)、号は君山)と西村時(とき)彦(つね)(号は天囚、碩園)とに注目し、両者に関連する新出資料「択善居記」を手がかりとして、近代初期における漢学者等の学術交流の一端を明らかにしようとしたものである。
 古典講習科とは、明治十年(一八七七)に東京大学が創設された際に文学部に設けられた和漢文学科とは別に、明治十五年(一八八二)に設置された教育課程である(注1)。古典講習科は当初、主に日本の古典を学ぶ課程として設置されたが、翌年に中国の古典を学ぶ課程を増設して、日本の古典を学ぶ甲部と漢籍を学ぶ乙部とに分けられ、その後更に甲部が国書科、乙部が漢書課と改称された。資言と天囚とは、明治十六年(一八八三)に古典講習科漢書課の第一期生として入学した。
 古典講習科に入学する前に、島田篁村の双桂精舎で既に出会っていた二人は、入学後親しく交わることとなったが、天囚は官費生の制度が廃止されたことから明治二十年(一八八七)に退学、小説家として活躍した後、明治二十二年(一八八九)に大阪朝日新聞社に入社、主に言論界で活躍した。資言は明治二十年(一八八七)に古典講習科を卒業し、その後仙台の第二高等学校の教授となり学界で活躍した。活躍の場を異にしながらも、二人は生涯を通しての友であった。
 もっとも、二人の学術的な交流の実態を知ることのできる資料は、天囚の死後、天囚との出会いなどの様々なエピソードについて、資言が手紙の引用を多数交えながら述べた「碩園先生の初年と晩年」(『懐徳』第二号碩園先生追悼録〔懐徳堂堂友会、大正十四年(一九二五)〕所収)があるものの、他に二人の交流について知る手がかりとなる資料はほとんどなく、これまで注目されてこなかった。
 こうした資料的制約を突破するきっかけとなったのが、天囚の出身地である鹿児島・種子島の西村家に残されていた大量の天囚関係資料の発見である。二〇一七年に始まった西村家所蔵資料の調査に翌年から加わった筆者は、その中から発見された「択善居記」に注目する。「択善居記」は、資言が双桂精舎で同学であった越後の高橋柳渓からの依頼を受けて書いたもので、二葉仮綴じの抄本に記されている。離別してから四十年後に資言を訪問した柳渓が、かつて故郷に帰る際に島田からもらった「択善居」という書斎の号について書いてほしいと資言に依頼、この依頼に資言は応じたのである。
 筆者は、「択善居記」の資言の署名に続いて「初稿」と書かれていることに着目し、この資料は、資言が天囚に批正を求めて送った草稿であろうと推測する。そして、資言の「択善居記」が、斯文会発行の雑誌『斯文』第五編第六号(大正十二年〔一九二三〕十二月)の「文苑」欄に掲載されていることを指摘し、西村家所蔵の「択善居記」と『斯文』掲載の「択善居記」とは、一部に字句の異同が認められるが、後者が完成版であり、「初稿よりも完結でテンポの良い漢文へと変容しているのが看取できる」とする。
 筆者はまた、『斯文』掲載の「択善居記」の末尾に、天囚・安井小太郎・牧野謙次郞・日下寛の四人の概評が附されていることについて、「当時の漢学者は、文章を作成すると師友に回覧して批正を求め、文を練る風潮があった」とし、資言は四人に「択善居記」の草稿を送って批正を乞い、その意見を基に改稿したものが『斯文』に掲載されたと考える。そして、西村家所蔵資料の中に「択善居記」の「初稿」があったのは、天囚は「初稿」そのものを資言に返却しなかったが、別の方法で資言に意見を伝えたためであり、西村家所蔵の「択善居記」の発見により、資言が初稿の段階から天囚と意見交換を行い、二人が学術的交流を行っていたことが確認できたとする。また、『斯文』掲載の「択善居記」に安井・牧野・日下の三人の評が附されている点について、三人と資言とは「以文会」という詩文の振作を目的とした会の会員であり、資言は「択善居記」を以文会に提出して批評を求めた可能性が高いとし、資言を軸とする当時の漢学者等が、師友に回覧して批正を求める知的交流を行っていたことが窺えるとする。
 続いて筆者は、資言に関する研究に、今後は以下の二つの新たな視座が必要であると主張する。第一に、資言の代表的業績である『史記会註考証』以外の資料の検討である。筆者はこうした研究に該当するものとして、池澤一郎「大須賀筠(いん)軒(けん)と瀧川君山との交友―忘れられた日本近代文学―」(注2)をあげる。池澤によれば、従来資言は詩を好まなかったとされてきたが、実は詩学に造詣が深かった。
 第二に、資言と教科書検定との関係についての検討である。こうした研究に該当するものとして、木村淳「教科書検定に携わった漢学者―瀧川亀太郎と長尾雨山―」(注3)を筆者はあげる。木村によれば、資言は古典講習科を卒業した後、文部省大臣官房秘書課と図書課とを兼任し、明治二十七年(一八九四年)から翌年にかけて中学校用漢文教科書の検定に関わっており、その際の資言の姿勢は近代的な漢文教科書の発展において重要であった。
 最後に筆者は、天囚と資言とに関連する二点の新出資料を紹介する。一つは、二松学舎大学が収集した天囚の手紙で、古典講習科漢書課の一期生であった市村瓚次郎に宛てたものである(注3)。古典講習科を基軸とする漢学者のネットワークの解明について、筆者は意欲を示す。もう一つは、西村家所蔵資料から発見された、資言が天囚の母親・浅子に贈った寿聯である。先に触れた資言の「碩園先生の初年と晩年」には、天囚が資言に、母のために寿聯をおくってほしいと依頼した手紙が引用されているのだが、西村家からは天囚の求めに応じて資言が作成した寿聯が発見された。二人の友情の深さが窺えると筆者は指摘する。

(1)古典講習科については、町泉寿郎「三島中洲と東京大学古典講習科の人々」(戸川芳郎編『三島中洲の学芸とその生涯』(雄山閣、一九九九年)、藤田大誠『近代国学の研究』(弘文堂、二〇〇七年)、品田悦一・齋藤希史『「国書」の起源―近代日本の古典編成』(新曜社、二〇一九年)参照。
(2)『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第六十七輯(早稲田大学大学院文学研究科、二〇二二年)所収。
(3)江藤茂博・加藤国安編『講座近代日本と漢学第五巻 漢学と教育』(戎光祥出版、二〇二〇年)所収。
(4)『黎明期の歴史学―東洋史学者 市村瓚次郎資料から―』(二松学舎大学附属図書館、二〇二二年)所収の「31 西村時彦書簡」(一九一八年〈大正七〉三月六日、市村宛二〇六)を指す。
 

 

漢学復権への道―懐徳堂中井履軒の業績を掘り起こす―

藤居岳人「江戸時代の『荘子』研究の評価―中井履軒撰『荘子雕題』を題材に―」(『中国研究集刊』第六十九号、二〇二三年三月)☆
湯浅邦弘
 江戸時代の懐徳堂は朱子学を基本とする学問所であった。教学に使われていた古典は、『論語』『尚書』『大学』など儒教経典が中心である。
 しかし、中国古典は儒教文献に限らない。古代では諸子百家と言われる様々な思想家たちが活動し、それぞれ魅力ある文献を残していた。中国から日本に伝わってきたのは、儒教や仏教の経典に加えて、史書、諸子百家の書、詩文集など様々で、懐徳堂の教授たちも広範な読書を背景とした豊かな学識を備えていた。
 中でも、中(なか)井(い)履(り)軒(けん)は懐徳堂で最大の学問的業績を残したことで知られるが、『論語逢原(ほうげん)』『史記雕(ちょう)題(だい)』などのほか、老荘思想に関する注釈書も執筆している。老荘思想は、儒教と並ぶ中国思想史のもう一つの柱とされ、人々が当然のこととして疑わない価値観や言語観、極度な文明化がもたらす社会や人間の混乱などを鋭く指摘する点に特色がある。懐徳堂から一定の距離を置き、自由な境地に遊んだ中井履軒にとって、老荘文献は共鳴するところの多い古典であった。
 藤居岳人氏の論考は、その履軒が著した『荘子雕題』という『荘子』注釈書を取り上げ、履軒がどのように『荘子』を評価していたのかを明らかにする。また、従来の『荘子』訳注書において、この履軒の業績がほとんど視野に入っていないことを指摘するものである。
 令和二年(二〇二〇)六月、藤居氏は、大阪大学に提出した博士学位論文に基づき、『懐徳堂儒学の研究』(大阪大学出版会)を刊行した。中井竹山・履軒を中心に、懐徳堂儒学の立場とその特色を思想史的に解明する画期的な業績であったが、藤居氏は、もともと学生時代には老荘思想に興味を抱いていたという。履軒の『荘子雕題』に着目したのは、そのような背景があったからである。
 この論考では、具体的な履軒の注釈例をあげながら、それらがきわめて高い水準にあったことを明らかにする。例えば、田(でん)子(し)方(ほう)篇の有名な一節。孔子と老子が会見したという故事で、通行本は、老子の風貌を「堀(くつ)として槁(こう)木(ぼく)の若(ごと)し」と記し、老子の言を「至(し)陰(いん)は粛(しゅく)粛(しゅく)たり、至(し)陽(よう)は赫(かく)赫(かく)たり。粛粛は天より出て、赫赫は地より発す」と記す。しかし、「堀」では意味が通じにくく、陰の極致である「粛粛」が「天」から生じ、陽の極致とされる「赫赫」が「地」に発するというのも理解しがたい。そこで履軒の『雕題』は、「堀」は「崛」(一つだけ高くそびえ立つさま)の意であり、また、「天」「地」を入れ替えてこそ意味が通じるので、伝写の過程で書き誤ったものだと指摘するのである。きわめて合理的で明快な注釈である。
 これについて近現代の訳注書は、近年の中国人学者にそうした説があることを紹介するばかりで、それよりはるか以前に提起された履軒の説を引かない。江戸時代の漢学者による『荘子』研究のレベルは低いという思い込みから、履軒の見解がまったく視野に入っていないのである。『荘子』の訳注書は日本の主要出版社の文庫本としても多く刊行されているが、そこに履軒の説が引かれることはほとんどない。
 明治維新以降、それまでの漢学が新たな中国学・東洋学へと再編され、近代的な研究が推進された。それは多くの偉大な業績を生んだが、一方では、江戸時代までの漢学の伝統を忘れ去るという負の一面もあった。近現代の学者たちが自身の創見だと得意げに語る内容も、実は、すでに江戸時代の漢学者が述べているという場合もある。履軒の『荘子雕題』はまさしくその実例なのである。
 では、それならばなぜ、履軒の『荘子雕題』は見過ごされてきたのか。その最大の理由は、これが写本として伝わるのみで、活字翻刻して刊行されることがなかったからであろう。明治時代に懐徳堂の復興運動を進めた漢学者・ジャーナリストの西村天囚は、「凡(およ)そ書物が写本で置かれるのは未開国の証拠である」と喝破している(『朝日講演集』所収「大阪の威厳」、一九一一年)。
 日本には手書きの写本をありがたがる風潮もあるが、それでは一部の好事家にしか知られず、学問が普及していかないのである。履軒は、自身の業績を誇るような人ではなかったから、刊行ということは考えなかったのかもしれない。しかし、その本に真の学術的価値があるのなら、後世の研究者は、それを歴史の淵から救い出し、世に広める責務があると言えよう。
 『荘子雕題』はその価値を有する履軒の業績である。そして、懐徳堂儒学と老荘思想との両方に精通した藤居氏こそ、それを現代によみがえらせることのできる適任者ではなかろうか。いつか『荘子雕題』の全容を、平易な訳注書の形で刊行していただきたいと願う。
 

 

「脱亜入欧」の萌芽は近世にあり

今野真二『江戸の知をよむ――古典中国からの離脱と近代日本の始まり』(河出書房新社、二〇二三年九月)
佐野大介
  本書は、題名にもあるとおり、「江戸の知」が表わされているテキストを「よ」み解いたものである。この「江戸の知」とは、「江戸時代において、あることがらについてどのような認識に至っていたかということ」(五頁)と定義されており、具体的にはさまざまな分野において、「古典中国からの離脱」という観念から「江戸の知」をとらえることを試みている。その分野は、儒学・名物学・本草学・博物学・国学・蘭学、および白話小説など広範囲に及ぶ。
 筆者は「思想」を「抽象度のたかい概念」とし、「「江戸の知」を抽象的に語るのではなく、できるだけ具体的に語る」(一〇頁)ことを心掛けたとする。その具体性は、「テキストを読む」ことに支えられている。この「テキスト」を、「具体的な存在」である実体としての書籍やそこに見える「書き込み」と、「抽象的な存在」である翻字されたテキストとに区別し、「まずできるだけ具体的にとらえることを考え」(一一頁)るという姿勢は、本書の特色の一つといえよう。
本書の構成としては、序章「江戸の知とは」、第一章「反朱子学の誕生」、第二章「古典中国語を離れて――白話小説の流行」、第三章「名物学・本草学の発展と博物学への展開」、第四章「町衆の知のコミュニティ」、第五章「国学における人情」、終章「江戸の知の広がり」の全七章より成る。
序章「江戸の知とは」では、「江戸の知」なる語について解説され、江戸時代に「知」が「開化」した理由として、江戸時代が「安定」しており、その結果として貨幣経済・交通網・印刷技術などが発展したことについて述べている。特に印刷技術の発展が、奥義や口伝とされてきたような各種技術の「情報公開」を促したとの視点は興味深い。
 第一章「反朱子学の誕生」では、主として儒者の伊藤仁斎と荻生徂徠との著作について解説されている。教科書的理解としては、江戸時代における儒教の展開は、まず幕府の後押しもあった朱子学が流行し、これに対して朱子学を批判する古学(仁斎の古義学・徂徠の古文辞学)が起こったとされる。徂徠ははじめ仁斎に傾倒していたが、後に立場を変え、仁斎を批判するようになる。両者は朱子学批判という点で共通するが、筆者は、「竹山には、反朱子学の仁斎を批判する徂徠が、朱子学的であるとみえていた」(四九頁)ことを指摘している。
第二章「古典中国語を離れて――白話小説の流行」では、江戸時代において、「かきことば=古典中国語文=漢文」とは異なる、「はなしことば=白話=唐話」の学習が盛んになり、併せて白話小説が読まれるようになったことについて述べ、中国語の「はなしことば」で書かれた白話小説の翻訳や理解には日本語の「はなしことば」が用いられており、所謂「言文一致」は、明治二十年頃に始まるという「常識」よりずっと早く始まっていたことを指摘している。
第三章「名物学・本草学の発展と博物学への展開」では、源順『和名類聚抄』をはじめ、林羅山『多識編』、貝原益軒『大和本草』、伊藤東涯『名物六帖』といった、今でいう百科全書的な書籍が取りあげられている。この中で、筆者は仁斎・東涯の思想傾向に「レッテル」を貼って外側から考察するというアプローチを「静的」と称し、中国語文化圏、中国語世界の知が抽出され類聚され、それがさらにテキストとして日本において出版されることを、「知が形成されていくさまを動きとしてとらえる」(二一二頁)として「動的」と称する。本章はこの「動的」アプローチの成果といえよう。
 第四章「町衆の知のコミュニティ」では、大坂の町人学者富永仲基の著作を中心に、石田梅岩『都鄙問答』、増穂残口『艶道通鑑』が採りあげられている。また、富永仲基が学んだ大坂の懐徳堂は、官許の学問所でありながら、運営は「五同志」と呼ばれる商人によって行なわれる「半官半民」の漢学塾であったことから、懐徳堂の歴史及び教学精神について大きく頁が割かれている。
 第五章「国学における人情」では、本居宣長及び富士谷御杖という、「日本の始原」を、テキストを通して探ろうとした人物が採りあげられている。作者は二人を、「「具体的な生」がしっかりと意識されていた」として、「「具体的な生」「具体的な日常生活」は江戸時代を考えるにあたってのキーワードの一つであろう」(二八八頁)と評している。
 終章「江戸の知の広がり」では、「江戸の思想」といったテーマで採りあげられにくい「具体的なかたちに結実した知」として、蘭学が採りあげられる。筆者は、オランダ語や英語などの翻訳に漢字が用いられていることを、「外国語を日本語内の「漢字世界」の枠組み内で理解しようとする」「「漢字世界」「漢文脈」の中に外国語をとりこむことで、外国語、外国文化を咀嚼したところに「日本」の特徴があらわれている」(三〇二頁)と指摘する。
 本書第一章において示された、朱子学から反朱子学への動き、第二章において示された白話小説とその翻訳の流行、第三章において示された、本草書等の印刷状況や白話を交えた近代中国語による解説、第四章において示された、富永仲基の加上論などの、必ずしも古代中国を範しない考え方や、第五章において示された、「漢意」流入以前の日本を明らかにしようとする動きなど、これらすべては、「古典中国からの離脱」という観点から「江戸の知」を捉えるものである。
 江戸時代までの日本では、「かきことば=古典中国語文=漢文」がさまざまなことがらにおける模範であり規範であった。それが江戸時代を通じて、徐々に「はなしことば=白話=唐話」が広まってゆく。一方で、明治になって日本に多量に流入してきた「西洋の知」は、漢文を読み書きすることによって受け入れられてゆく。このことに関して、筆者は、「「江戸の知」は「近代日本の始まり」でもあった」「中国を古典的中国世界ととらえると、そこからの離脱は江戸時代にすでに始まっていたのではないか」ということが、「本書の主張であり問題提起」(三一四頁)であると結論付けている。ここにおいて、「古典中国からの離脱と近代日本の始まり」という副題が完全に回収されたといえよう。
 

 

読む注釈書―中井履軒の『易』注の特色を詳細に解説する―

塘耕次『中井履軒『周易逢原』と朱子『周易本義』』(汲古書院、二〇二三年二月)
久米裕子
 本書は、乾卦から未済卦までの六十四卦について、その経文に対する中井履軒の注釈と朱熹の注釈の相違点を丁寧に拾い上げ、平易な日本語を用いて詳細に解説している(1)。
 朱熹(一一三〇―一二〇〇)は、南宋の思想家で、いわゆる朱子学を築き上げた人物であり、中井履軒(一七三二―一八一七)は、江戸時代の懐徳堂を代表する儒者である。履軒は、経学研究に優れ、『周易逢原』は、その代表作である『七経逢原』の中の一つであり、朱熹の注釈を事細かに批判している。そもそも履軒の『周易逢原』は、朱熹が著した『周易本義』の刊本の欄外に履軒が書き込んだ注釈(『周易雕題』)を集大成したものであり、『周易本義』は『周易逢原』の原点とも言える。
 本書の体裁について、その序文に「本書の体裁は、六十四卦の見出しの次に、経文などを提示してそれを中心に論じたり、経文などの提示がなく、ただちに内容に入ったり統一されていない」とある。つまり本書は一般的な注釈書に見られるような型にはまった体裁を採用していない。読者は、塘氏の解説を通じて、各卦の卦辞や爻辞に対する朱熹と履軒の注釈を比較検討することになる。なお朱熹と履軒の注釈はすべて自然な日本語に訳されており、必要に応じて原文を挙げたり、書き下し文を提示したりしている。
 本書の特色は、その解説の分かりやすさにある。塘氏は、『王弼の『易』注』や『蘇軾の易』といった注釈書を著している(2)が、両書においても、文章としての読みやすさを意識し、折に触れて『易』の基本概念について説明するなど、初学者にも配慮した内容になっている。また全頁の欄外に卦名と卦形を載せているのは、単なる見出しとしてではなく、卦形が頭に入っていない読者への配慮であろう(3)。この両書と比べると、本書は、『易』の用語に関する説明は少ないものの、朱熹の注釈と履軒の注釈の日本語訳を単に列挙するのではなく、そのあとに、注釈の内容をさらにかみ砕いて解説し、特に議論が複雑な場合は、逐語訳に固執せず、その大略を述べたり、議論の総括を行ったりするなど、塘氏の先の両書以上に入念な解説が施されている。これよって朱熹と履軒の見解の違いがより鮮明になり、履軒の論点を細部まで理解することができる。また原文・書き下し文・現代語訳・解説といった体裁を採っていないこともあり、思考が途切れることなく、塘氏の解説を一気に「読む」ことができるのも本書の特色と言える。
 以下、本書に見られる履軒の注釈の特色をいくつか紹介する。
 まず履軒の注釈は、合理主義的と評されることが多い。履軒は、理にかなっていないと判断すれば、経文や伝文の字句や配列を大胆に改めている。『易』に関しても、乾卦、坤卦、大壮卦には文字や文章の順序に乱れが多い(錯簡)としてテキストを改変している(4)。たとえば乾卦の経文は次のようになる(履軒加筆箇所に傍線を付した)。
  乾。元亨。利貞。
  初九。潜龍在淵。勿用。
  九二。見龍在田。利見大人。
  九三。騰龍在雲。君子終日乾乾。夕惕若。厲无咎。
  九四。躍。无咎。
  九五。飛龍在天。
  上九。亢龍有悔。
  用九。見羣龍无首。吉。
 塘氏は、履軒のこの改変によってテキストは文章理解の上でも、また文章構成の上でも、なめらかな美文になっていると称賛している。しかしその一方で、合理性を求めすぎているという批判を受ける可能性を指摘している。また塘氏は履軒の改変の正当性を裏付けるような資料は現時点で発見されておらず、むしろ近年の出土資料によって、古いテキストは履軒が考えるほどには整っていないことが証明されているとしながらも、新たな資料が見つかる可能性は皆無ではないと述べている。
次に履軒が近代の合理性を全面に出して経文の改変をおこなう一方で、経文は即物的・直感的な感覚によって書かれたとして、古人の思考にできるだけ返って『易』を理解しようとした面もあると塘氏は指摘する。これに対して、朱熹は古人の思考を無視したとは言えないものの、心の修養を強調するあまり、倫理的、道徳的解釈が目立ち、履軒はこれを批判したと言う。たとえば朱熹は『易』を儒学の立場から注釈を加えようとするあまり、陽に味方し、陰を退けようとする傾向(扶陽抑陰)が見られるが、履軒はこれに強く反対している。また一年を陰陽の抗争と捉え、十二ヶ月に卦を配当すること(十二消息卦)にも履軒は反対している。そして履軒は、坤卦を賛美して、陰だけを尊ぶ老荘を「易を理解していない者」と見なしつつも、その陰に関する言説には見るべきものがあるとしている。全般的に履軒の注釈は朱熹に比べて素朴なものが目立ち、朱熹が『易』の解釈に付け加える独特のニュアンスをそぎ落とそうとしているようにも見える。
 このほか、本書の解説によれば、履軒は『易』の経文は、占いの言葉を生み出すもととなるイメージを表わした「象」と占いの言葉である「占」に分けて解釈している。これに対して、朱熹の注釈はこの区別が曖昧であるなど、塘氏は履軒の注釈の全体像を見据えて総合的な解説を施している。
最後に『易』の「伝」(いわゆる「十翼」)に対する履軒の考えを紹介する。一般に「伝」は、孔子の作と伝えられ、経文を理解する助けとされ、経文と同様に重要視される。
 本書によれば、履軒は「十翼」は孔子の作ではないとしつつも、「十翼」によって易占いが利害を主とする方向に流れず、人間としての道を説く方向に引き戻されたと評価している。しかしその一方で「十翼」を過剰に信頼することを危険視している。そして履軒は「十翼」の内、「大象伝」のみを経文と対等に並ぶ文章として高く評価するが、それ以外に対しては、非常に批判的である。「伝」の内容にも問題があるが、それ以上に「伝」の内容を無理矢理に経文に当てはめることで、「伝」が「経」の解釈を歪めてしまう可能性があるとしている。
 また履軒は、「十翼」の「十」という数は妄に過ぎないとして、これを「翼伝」と呼び、さらに「大象伝」を「象」、「小象伝」を「繋辞伝」、「文言伝」「序卦伝」、「雑卦伝」は「文言」、「序卦」、「雑卦」、「繋辞伝」と「説卦伝」合わせて「大伝」と呼ぶべきだとして、「伝」の呼称や配列の改訂を行い、さらに「大伝」には錯簡があるとして、朱熹による分章を改変している(5)。
 なお履軒の自筆手稿本『周易逢原』は計三冊から成り、それぞれ「周易上」、「周易下」、「翼伝」といった三部構成になっており、『周易逢原』において「伝」の占める割合はかなり大きく、履軒は「伝」についてもかなり力を入れて注釈している。しかし本書では、「伝」に対する注釈は部分的にしか取り上げておらず、この点を補うように、六十四卦の解説のあとに「伝について」という一篇を設け、「伝」に対する履軒の見解をまとめている。本書の続編として、ぜひ「翼伝」についても、塘氏の詳細な解説を読みたい。
(1)塘氏の『易』に関する著作には、本書のほかに、『王弼の易注』(明徳出版社、二〇一八年)、『蘇東坡と『易』注 』(汲古書院、二〇一三年)、『蘇東坡の易』(明徳出版社、二〇一〇年)、『易学ガイド』(明徳出版社、二〇〇九年)、『易の講義』(崑崙社、二〇〇六年)がある。参考までに述べると、塘氏は、早くから履軒の『易』注に注目しており、十二消息卦を手がかりに易占いの基本概念を解説した『易学ガイド』では、履軒の『易』注を「伝統に従いながら、独自の視点を持ち、個性豊かで刺戟的な考えを述べている」と評し、『易』に関する主要な学説として、蘇軾や朱熹の説と並べて、履軒の説を数多く取り上げている。また『蘇東坡の易』では、蘇軾の注釈が難解である場合などに、履軒の説を引いて補いとしている。
(2)塘氏の『王弼の『易』注』および『蘇東坡の易』は、いわゆる注釈書の体裁を採用しており、両書の体裁はやや異なるものの、ともに六十四卦すべてを対象とし、まず卦名と卦形を挙げ、次いで王弼あるいは蘇軾の注釈にもとづいて卦辞・爻辞の書き下し文ないしは現代日本語訳を提示し、そのあとに王弼あるいは蘇軾の注釈の現代語訳と塘氏による詳細な解説が施されている。また両書には、それぞれ「附録」として、文淵閣四庫全書本『東坡易伝』および文淵閣四庫全書本『周易注』が別冊で添えられている。
(3)『王弼の易注』の序文には「特に専門家だけに読まれることを意識しなかったため、常識的なことまで説明があり、くだくだしいと思われるかもしれない。……できる限り初学の人にも分かりやすくなることを心がけ、言葉を補いつつ日本語としても読みやすいことを目標とした」とある。また『蘇東坡の易』の跋文にも「本書は全般にわたり、出来る限りやさしく書いたが、学問的レベルは下げていない」とある。これは塘氏の執筆理念と言える。
(4)乾卦、坤卦、大壮卦の改変について、履軒の『周易雕題』には、竹簡を模した付箋に改変したテキストを記し、これを貼付しており、早い段階からこの構想があったことが窺われる。
(5)履軒が考える「十翼」の呼称ならびに錯簡について、詳しくは、懐徳堂文庫復刻叢書『周易雕題』(懐徳堂記念会、平成九年)所収の筆者の「解説」を参照されたい。なお朱熹は、伝文(十翼)を経文から分離させ、すべて経文の後ろに置き、「繋辞伝上」の第九章の前後の錯簡を指摘して「繋辞伝上」の分章を改めている。履軒は、朱熹が採用した錯簡という概念によって、朱熹を批判したことになる。履軒は朱熹の学問を批判的に継承していると言える。
 

 

明治漢学の一側面を探るための基礎資料

町泉寿郎「二松学舎所蔵の西村天囚関係資料にみる古典講習科の人々の交流」(『東アジア学術総合研究所集刊』第五十三号、二〇二三年五月)☆
藤居岳人
 本稿で紹介する町泉寿郎氏の論考(以下、町論考と称する)が取り上げる東京大学古典講習科とはどのような存在だったか。
 江戸時代から明治時代になって、学術界もそれまでの漢学中心の時代から洋学中心の時代へと転換してゆく。江戸幕府の教学機関で、漢学の拠点だった昌平坂学問所は維新期の混乱の中でいったん閉鎖される。明治十年(一八七七)に明治政府によって東京大学が設立され、文学部の中に和漢文学科が設置された。そこでようやく漢学の拠点が復活する。
 ただ、明治十九年(一八八六)に東京大学が帝国大学(その後、明治三十年に京都帝国大学が設置されたことで東京帝国大学と改称)として改編されるまでの約十年間の和漢文学科の卒業生はわずか二名にとどまっていた(注1)。これは注(1)の町田論考にも言及されているように、大学に進学するための予備門に入学するには外国語(特に英語)の習得が必要で、当時、漢学を学ぶ学生が外国語を習得することが容易ではなかったことが主な要因であっただろう。このような状況の中で漢学を学ぶ学生に注目されたのが東京大学古典講習科だった。
 古典講習科は明治十五年(一八八二)に新設される。当初は国学のみが対象だったが、明治十六年(一八八三)に乙部(翌年に漢書課に改称)が開設されて漢学も対象となり、国学を教授する部門は甲部(翌年に国書課に改称)とされた。町田論考のみならず町論考でも言及されるが、この古典講習科は入学試験で外国語が課されず、さらに入学者に兵役免除と一部の学生には官費支給が認められていたために、多くの俊英が受験して、その倍率は約四倍にも至ったという。以上が古典講習科設置の経緯である。
 そもそも町泉寿郎氏は、科研費基盤研究(B)「日本近代人文学の再構築と漢学の伝統―西村天囚関係新資料の調査研究を中心としてー」(研究代表は島根大学教授竹田健二氏)の研究分担者として、西村天囚と東京における「漢学」との関係を中心に研究を進めているとのこと。特に町氏の本務校たる二松学舎大学の前身である漢学塾二松学舎から東京大学古典講習科に進んだ学生は、『二松学舎六十年史要』等に拠れば十三人にも上り、明治十年代の二松学舎の塾生にとって重要な進学先の一つであったとのことである。そして、二松学舎大学所蔵の資料に古典講習科関係者のものがあり、その中に古典講習科に在籍していた西村天囚の関係資料も含まれていることから、町論考はその資料紹介を主目的としている(注2)。
 町論考で紹介される資料の大部分は、近年、二松学舎大学日本漢学研究センターの所有となった市村瓉次郎の草稿類や市村宛ての来簡三四〇通余とである。市村瓉次郎は、小永井小舟の門下から明治法律学校を経て明治十六年(一八八三)に古典講習科乙部に入学、首席で卒業した後に学習院や東京帝国大学などの教授を歴任した東洋史学の権威である。その市村宛ての書簡の中に西村天囚からの書簡や西村天囚に言及する友人からの書簡等が含まれている。町論考はそれらの西村天囚関係資料を以下のように分類する。
①古典講習科在学期の西村天囚に関する資料
②漢学振興に関する西村天囚と古典講習科の人々の動向
③西村天囚の博士学位に関する資料
④晩年の西村天囚と古典講習科旧友との交友
 実は市村瓉次郎と西村天囚とは古典講習科乙部の同期生であり、同期生としては他に『日本漢文学史』の著のある岡田正之や『史記会注考証』で著名な瀧川亀太郎がいる。後の漢学界を牽引する錚々たる顔ぶれである。ただ、官費生として古典講習科に入学した西村天囚だったが、大学の制度改変による官費生制度の廃止や自身の不行跡などによって、明治二十年(一八八七)に古典講習科を中退する。また、古典講習科自体も大学内における予算措置が十分でなかったことなどを理由に二度目の卒業生を出した後、明治二十一年(一八八八)に廃止となる。したがって、卒業生のみならず中退した学生を含めても古典講習科に在籍した学生はごく少数に限られた。ただ、彼らは和漢学の知識に長けた優秀な学生の集まりであり、そこから古典講習科に在籍した学生同士のつながりが非常に深いものになっていったことは容易に想像できる。町論考において紹介される書簡類からは、古典講習科関係者同士の懇切な交流の様相をうかがうことができる。
 たとえば、「西村天囚書簡(大正七年〈一九一八〉三月六日)市村206」である。同年に漢学の復興等を目的とした斯文会を創設する際、市村瓉次郎は幹部の一人となっていたが、西村天囚にその計画への賛成を求めたのに対して、西村天囚からは東の斯文会と西の懐徳堂とが呼応して漢学振興を進めたいという趣旨の返答があった。さらに同書簡では、市村瓉次郎と同期の瀧川亀太郎の白髭を剃って若返った方がよいという忠告まで天囚がしており、気の置けない同期生同士の関係をうかがうことができる(注3)。
 また、「西村時彦書簡(明治四十四年〈一九一一〉八月十一日)市村142」、「西村天囚書簡(明治四十四年〈一九一一〉九月十五日)市村143」、「西村天囚書簡(明治四十四年〈一九一一〉十二月二十三日)市村147」などの書簡は、明治二年(一八六九)にいったん廃絶した懐徳堂を再興するために西村天囚らの発議によって中之島公会堂において懐徳堂記念祭(懐徳堂先賢たちを顕彰する記念式典)が挙行されるに当たり、天囚が祭典の式次第や記念講演の人選まで一手に取り仕切っていた様子がうかがえる貴重な資料である(注4)。
 最初にも述べたように、明治時代の学術界は漢学中心の時代から洋学中心の時代へと転換する過渡期であった。そのなかで東京大学古典講習科は、時代の狭間で翻弄される漢学者たちにとって一縷の望みであったといってよい。その漢学者たちの状況を知ることのできる資料は数少ない。今回、二松学舎大学日本漢学研究センターの努力によって収集された市村瓉次郎の草稿類や市村宛ての書簡等の資料は、当時の漢学者の状況を知るための貴重な資料である。恐らく現在も民間あるいは大学図書館等の研究機関にはこのような資料がまだまだ埋もれているに違いない。そのような資料群を発掘し紹介することで、今後、明治時代の漢学の様相をより一層明らかにすることができる。町論考はその契機の一つになるといってよいと考える。

(1)町田三郎「東京大学『古典講習科』の人々」(町田三郎『明治の漢学者たち』(研文出版、一九九八年。もと『九州大学哲学年報』第五十一号、一九八三年))を参照。
(2)二松学舎と古典講習科との関係について、町氏はすでに別稿において詳細に論じている。町泉寿郎「三島中洲と東京大学古典講習科の人々」(戸川芳郎編『三島中洲の学芸とその生涯』(雄山閣、一九九九年))を参照。
(3)本書簡は、池田光子「瀧川資言と西村天囚―西村家資料を用いた一考察―」(『中国研究集刊』第六十九号、二〇二三年)等において、すでに紹介されている。
(4)明治四十四年(一九一一)に挙行された懐徳堂記念祭については、竹田健二『市民大学の誕生―大坂学問所懐徳堂の再興―』(大阪大学出版会、二〇一〇年)八十三~一一一頁を参照。市村瓉次郎は「儒教と社会政策」という題目で講演している。

 

不思議な縁を契機とした西村天囚研究の進展―近世漢学から近代人文学への展開の一側面―

湯浅邦弘『近代人文学の形成―西村天囚の生涯と業績―』(汲古書院、二〇二四年九月)☆
藤居岳人
 本書は湯浅邦弘氏(大阪大学名誉教授。現立命館大学教授)による、西村天囚の生涯や業績に関わる研究の集大成ともいうべき著書である。
 本書の主人公西村天囚には作家、ジャーナリスト、漢学者などさまざまな側面があり、その業績も多様なジャンルにわたるが、彼の大きな業績の一つとして明治四十四年(一九一一)に懐徳堂記念会を立ち上げて、江戸時代の漢学塾懐徳堂の復興や顕彰活動に取り組んだことが挙げられる。そして、天囚らの尽力によって発足した懐徳堂記念会は、大正五年(一九一六)に重建懐徳堂として懐徳堂を再建した。その後、昭和二十年(一九四五)の大阪大空襲により学舎は焼失したものの、約三万六千点の蔵書は辛うじて焼失を免れ、昭和二十四年(一九四九)に大阪大学に寄贈された。以後、懐徳堂の事業は財団法人懐徳堂記念会として大阪大学内で活動を継続している。また、西村天囚自身の旧蔵書は、まず懐徳堂記念会に寄贈されて「碩園記念文庫」となり、後に大阪大学附属図書館懐徳堂文庫に収められることになった。
 天囚の伝記は昭和四十二年(一九六七)に刊行された後醍院良正『西村天囚伝』にまとめられており、一定の天囚研究は進んでいる。ただし、天囚研究が加速度的に進展することになったのは、湯浅氏と西村天囚のご子孫とが平成二十九年(二〇一七)に邂逅され、天囚関係の多くの未整理の資料が種子島に存在することが明らかとなってからである。その年の六月に、天囚のご子孫で種子島在住の西村貞則様ご一行が大阪大学を訪問され、湯浅氏がご一行を懐徳堂文庫に案内された。懐徳堂文庫所蔵の西村天囚旧蔵書を一行にご覧いただいた際、西村貞則氏から種子島にもまだ天囚関係の資料が多数存在している旨が湯浅氏に伝えられ、その結果、同年八月に湯浅氏を中心とした調査団が種子島を訪問し、そこに残る天囚関係の資料の詳細な調査が開始されたのである。その後、湯浅氏を中心とする西村天囚研究グループが形成され、新たに存在が確認された新資料を中心に天囚に関する研究が進展することになった。ちょうど前年の平成二十八年(二〇一六)は重建懐徳堂の開学百周年に当たっており、懐徳堂記念会と大阪大学で種々の記念事業が実施されていた。その翌年に天囚のご子孫が阪大を訪れられたことを湯浅氏自身が「天囚の導いてくれた運命的な出会い」(湯浅邦弘他「西村天囚関係資料調査報告―種子島西村家訪問記―」(『懐徳』八十六号、二〇一八年))と述べられている。
 そして、上述のように湯浅氏が同年八月に初めて種子島を訪問され、西村家や種子島開発総合センター(鉄砲館)などに所蔵される資料群を調査された結果、種々の新資料が発見された。たとえば、それまで写真の中でのみ存在が確認されていた「読騒盧」の扁額の実物が種子島西村家に残っていたこと、天囚旧蔵印が多数残っていたこと、また、目録でのみ存在が記されていた『論語集釈』の存在の確認、その他さまざまな草稿類の発見などである。これら新たに存在が確認された天囚関係の資料群は多岐の分野にわたり、湯浅氏の分類によれば、①文献・文書類、②写真、③書画・拓本類、④書簡類の四種となる(湯浅邦弘「平成三十年度(二〇一八)種子島西村天囚関係資料調査について」(『懐徳』八十七号、二〇一九年))。
 これらの資料群は現在でも調査・整理が続行中とのことで、湯浅氏を中心として島根大学の竹田健二氏や松江高専の池田光子氏らによって新資料を基にした研究論考が陸続と発表されている。湯浅氏はすでに西村天囚の世界一周会参加記について記した『世界は縮まれり 西村天囚『欧米遊覧記』を読む』(KADOKAWA、二〇二二年)、天囚の講演草稿を中心に取り上げた『大阪の威厳―講演で読み解く近代日本―』(汲古書院、二〇二五年)を刊行されているが、本書は上記の書以外の湯浅氏の西村天囚研究関係論考をほぼ網羅している。
 約六〇〇頁にわたる厖大な分量の本書の内容を逐一紹介することはやや冗長になるうえ、多くの章はすでに一度発表された論考を基に修訂のうえ掲載されていることから、本稿では書き下ろしの第九章「幻の御講書始」、終章「「文会」の変容と近代人文学の形成」を中心に紹介する。
 まず第九章「幻の御講書始」である。講書始は毎年正月に行なわれる宮中行事で、天皇に対して学界の碩学が進講する儀式である。元来は明治二年(一八六九)に明治天皇が学問奨励のために始めた「御講釈始」であり、当初は国書や漢書についての進講のみだったが、後に洋書も加わった。そして、昭和二十八年(一九五三)からは、人文科学・社会科学・自然科学の三つの分野の進講が行なわれるようになって現在に至る。
 大正十三年(一九二四)の漢書進講の担当は京都帝国大学教授の狩野直喜だったが、その漢書の控として陪席していたのが西村天囚だった。控とは文字通り進講者に不測の事態があった場合に代役を務める役目だったと考えられる。さらに控は原則として翌年の御講書始の担当となることが当時の慣例だったようである。順調なら天囚が翌年の御講書始の漢書進講担当になるはずだったのだが、この控になった時期にはすでに天囚自身の体調が思わしくなく、同年七月に彼は急逝している。したがって、実際に天囚が進講役になることはなかった。
 これまで後醍院良正『西村天囚伝』によって、天囚が御講書始に控として陪席していたことなどは知られていたが、その詳細は不明だった。しかし、種子島における湯浅氏の調査により、西村家から種子島開発総合センターに寄贈されていた天囚関係資料から、天囚が自身の進講役を想定して進講のために準備したと思われる五種類の草稿の存在が確認されたのである。その草稿から天囚が『詩経』大雅仮楽篇に関する進講を準備していた様相がうかがえるが、湯浅氏は詳細な内容調査により、それら草稿が執筆された順序を推定している。便宜上、湯浅氏は五種類の草稿を草稿Aから草稿Eと名づけ、講義口調で執筆された草稿A・草稿B・草稿Dと、文章語で記された草稿C・草稿Eに区別する。そのうえでまず草稿A→草稿B→草稿Dの順に執筆され、その後、自身の進講の内容を文章語としても残しておくことを意図して草稿E→草稿Cの順で執筆したと推定する。
 そして、進講のための天囚の最終草稿が草稿Dであることを示したうえで、湯浅氏は草稿Dに基づいて天囚の進講内容を紹介する。さらに天囚が『詩経』大雅仮楽篇を進講に取り上げた意義を考察し、天囚が『詩経』を通して、天皇に対する「帝王の大道」を説くという理念があったことを指摘する。ただ、講書始は徐々に「書」を「講」ずる本来の意義が薄れ、進講者の多様な学識や先端的な学問を進講するように時代とともに変化していったとする。
 続いて終章「「文会」の変容と近代人文学の形成」である。文会とは、詩文を作成して発表や批評をしたり書画や篆刻・茶などの文化を共有したりするための文人同士の集まりである。この文会が近世から近代への過渡期を象徴していると湯浅氏は述べる。すなわち、江戸時代以前の近世において文会は一定の文化的教養を共通基盤とする文人たちの私的で閉鎖的な世界だったが、明治時代以後に天囚が組織に関係した大阪人文会や景社などは、次世代を担う若者の入会も促進し、新参も古参も年齢に関係なく参加可能な会だった。いわば近世的サロンから近代的サークルへの変化を体現していた。
 当時の知識人のあり方として、幕末から明治への変革期、あるいは過渡期にあって、旧来の漢学の伝統を墨守しようとした知識人もいれば、新たな洋学興隆の時流に乗ろうとした者もいた。ただ、旧来の漢学から近代の新たな人文学への展開は、両極端な立場では実現しなかったはずであり、そのような時期にあって、天囚は「温故知新」的立場で時代を牽引したのだと湯浅氏は指摘する。
 天囚は明治十五年(一八八二)に東京大学に新設された古典講習科に在籍していた。天囚自身は明治十六年(一八八三)に官費生として入学した(ただし、大学の制度改変による官費生制度の廃止や彼自身の不行跡などの理由で、明治二十年(一八八七)に中退)。古典講習科は江戸時代の漢学から明治時代以降の洋学への学術界の質的転換の狭間をつなぐ存在で、近世から近代への過渡期を象徴しているといえる。その古典講習科に在籍した天囚が近世から近代、あるいは漢学から人文学への橋渡し的存在になったのは、まさに時代を象徴しているといえよう。つまり、その橋渡し役を務めたことが西村天囚という存在の思想史的意義であり、その意義を掘り起こしたところに本書の大きな価値があるといえる。今般、種子島において西村天囚関係の多くの新資料が発見されたが、上述のようにその整理はまだ途上とのことである。新たに発見された資料群の全貌が明らかとなり、今後、より一層、西村天囚研究が進展することが期待される。
 ちなみに本書に直接的な関連はないが、懐徳堂文庫所蔵の文献を使用した研究を進めている筆者としては、天囚と関係のあった国内外の関係者を小事典的に紹介している第十一章「近代文人の知のネットワーク」に、懐徳堂文庫の蔵書中の書き入れにときどき見える東洋美術史学者の瀧精一氏の名前や、懐徳堂文庫所蔵の『校正草茅危言』の寄贈者として、皇太子に対する倫理進講を七年にわたって継続した杉浦重剛氏の名前が見えていることは、天囚と懐徳堂文庫とのつながりを実感することができ、非常に興味深かった。

 

繋がる江戸期の知識人―国学・漢学の垣根を越えた知の交流―

石岡康子「懐徳堂中井甃庵との関係から見る荷田春満の契沖説受容の可能性と倭学校創設構想」(『近世における前期国学のネットワーク形成と文化・社会の展開に関する学際的研究』二〇一九年)(注1)☆
中村未来
 懐徳堂が幕府公許の学問所として認められ、「大坂学問所」と呼ばれるようになったのは、一七二六(享保一一)年、今からちょうど三百年前のことである。その立役者とされるのが、懐徳堂二代目学主の中井甃庵(一六九三~一七五八)である。甃庵は懐徳堂の最盛期を築いた竹山・履軒兄弟の父であり、三宅石庵(一六六五~一七三〇)、五井持軒(一六四一~一七二一)・五井蘭洲(一六九七~一七六二)とともに初期懐徳堂を支えた重要人物であると言える。
 懐徳堂においては、特に五井父子が和学に通じており、和学者の下河辺長流(一六二七~一六八六)や契沖(一六四〇~一七〇一)とも親しく交流していたことが指摘されているが(注2)、本稿においては、二〇〇二(平成一四)年に発見された書状を用いて(注3)、従来、全く知られていなかった国学者荷田春満(一六六九~一七三六)と甃庵との関係が明らかにされている。本稿各章の見出しをあげれば、次のとおりである。
   はじめに
  一、春満と中井甃庵との関係
  二、春満の契沖作書『万葉代匠記』入手経緯
  三、官許の倭学校創設構想
  四、官許の倭学校創設が出来なかった理由
   おわりに
 荷田春満は、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学四大人の一人とされる人物で、一六六九(寛文九)年に伏見稲荷社御殿預の羽倉主膳正荷田信詮の次男として生まれた。第一章では、複数の人物からの書状を通して、春満と甃庵との関係性が語られている。甃庵は、一七〇八(宝永五)年一六歳の時に伊予の新谷藩の大坂蔵屋敷留守居をつとめる岸田源之進の養子となるが、源之進の死後、養母(真照院)とその弟(勝見杢之介(正景))が画策して嗣子の権を奪おうとしたので、養家を去り、原姓に復したとされている(注4)。春満は、まさにその甃庵の養母・養叔父と書状を交わす旧知の仲であり、本稿で引用された養母の書状には、「末は娘千代と夫婦にさせるつもりでいたが甃庵から親子の縁を切った。真照院は艱難の生活にある甃庵を戻し、千代と夫婦にさせようと、六・七年前真照院方へ戻るように春満から甃庵へ話をしてもらった事があった。この度も甃庵の考えを聞くように」(本稿一四六頁)と春満へ依頼したこと等が記されている。この書状よりすれば、春満と甃庵の繋がりはすでに六~七年にも及んで深いことが分かり、また従来言われていたような「嗣子の権を奪おうとした」という真照院像には、再考の余地があるように思われる。
 第二章では、一七二七(享保一二)年に甃庵が春満に出した書状が取り上げられ、春満が甃庵を仲介として契沖の著作『吐懐篇』や『補翼』、『万葉代匠記』などを借用したことが示されている。著者は、春満がこれ以前には契沖の著作を所持しておらず、『万葉代匠記』も読んでいなかった可能性があり、少なくとも、一七二六(享保一一)年~一七二七(享保一二)年頃迄に書かれた春満の『万葉集』に関する著作については、春満独自の研究成果と言えるのではないかと指摘している。摂津と伏見という同じ関西の地に生まれて、国学の嚆矢とされる契沖と春満だが、春満の書状を通して浮き彫りになるのは、彼が初めから契沖に深く傾倒し、万葉集の解釈全てを契沖に依拠していたという姿ではなく、むしろ書物入手の困難さや、情報を得るための知的ネットワークの形成がいかに重要であったか、という当時の状況であると言えるだろう。
 第三章では、春満が官許の倭学校の創設を構想していたことが語られている。そもそも、官許学問所の先駆けとしては、一七二三(享保八)年、菅野兼山が幕府の援助を受けて、江戸に私塾会輔堂を設立したことがあげられる。その後、京・大坂にも学問所を設立したいとの将軍家(徳川吉宗)の意向があることを伝え聞いた三輪執斎が甃庵に書状を送り、甃庵が官許獲得運動を展開することとなった。その結果、甃庵と大坂町人が中心となり開設した懐徳堂も、一七二六(享保一一)年に官許獲得を果たしたのである。本稿に掲載された書状からは、これらの動きに関心を寄せる春満の様子が窺える。
 春満の弟(信名)の養子信郷が上田秋成らと編纂刊行した春満の遺詠集『春葉集』の附録には「創造国学校啓」が見え、『春葉集』後序には「春満には嘗て国学校創立の志が有ったが、執事へ上啓しない内に没した。志は遂げなかったがその言葉は伝えるべき」という、信郷が「創造国学校啓」を出版した動機が述べられている(本稿一四八頁)。なお、「創造国学校啓」以前には、罫紙に記された草稿「創倭学校啓」が存在しており、先行研究では、その偽造説を巡って多くの議論がなされているという(本稿一四九~一五〇頁)。ただし、著者は本稿に掲載された諸史料により、春満が官許の学問所創設に関心を持っていたことは明白であり、また弟信名の日記からは、懐徳堂の前身とも言うべき含翠堂と関わりのある奥野清順や三輪執斎と春満が旧知の間柄であったことが窺え、官許の学問所創設に関する情報を春満は早くから得ていた可能性があると述べている。そのため、「創倭学校啓」を後世の偽造文書とするのは早計であり、当該文書は現時点において、春満が山名霊淵(注5)に官許の倭学校創設の意義を伝え執筆させたものと考えられると結論付けている。
 では、一体なぜ、倭学校創設は実現しなかったのであろうか。第四章で著者は、春満には官許の倭学校創設の構想はあったが、健康状態に不安があり、周囲にも春満の手足となって倭学校創設を推進できる人物はいなかった。また、懐徳堂が官許を得た後、継続的に安定した学問所になるまでに、幕府とは様々な交渉が必要である事を知っていた春満には、構想を実行する事が出来なかったと考えられ、実際に幕府にも羽倉家(春満の生家)にも「創倭学校啓」を幕府へ上啓した証拠となる記録は発見出来ていないとしている。この背景を踏まえれば、当時、中井甃庵がいかに懐徳堂運営に尽力していたかが理解でき、また官許を獲得した際に三輪執斎が「未曾有の御事」(注6)と讃えたことが、より一層実感できるのではなかろうか。
 本稿は、書状や日記などの史料を丁寧に読み解くことで、今まで指摘されてこなかった春満と甃庵との関係性、また春満の契沖説受容の時期、さらには「創倭学校啓」の信憑性等について新たな知見をもたらす論考であると評価できる。書状や日記などの史料には、単なる無味乾燥な文字情報だけではない、当時の人々の想いや息づかいが如実に表れているように思われる。コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが重視され、瞬時に遠方の人々と繋がり、また瞬時に消えていくSNS時代のやり取りは、今後一体、どれほどの年月を耐えうるだろうか。春満の書状二三一通が現代にまで残されて伝えられているのは、やはり人の思いを重く受け止めて、それを残そうとしたまた別人の思いがあったからではなかろうか。本稿を通して、江戸期の知識人が重要な情報を自ら入手することの困難さと貴重さを痛感すると同時に、それでもなお人と人とが様々な垣根を越えて繋がり、有機的に文化や思想が形成・発展していったという光景を目の当たりにし、底知れぬエネルギーを感じるのである。

(1)本稿の序文によれば、本稿は、平成二六年度國學院大學特別推進研究成果報告書に収録された著者の「契沖『万葉代匠記』をめぐる懐徳堂中井甃庵と春満」を訂正・改編したものであるという。
(2)今井貫一「大阪の国学及儒学」(『大阪文化史論』一九二四年、宝文館)や小島吉雄「懐徳堂と和学」(『懐徳』第二八号、一九五七年、懐徳堂堂友会)などに詳しい。
(3)二〇〇二(平成一四)年一二月、國學院大學創立百二〇周年記念『新編荷田春満全集』刊行のための調査で、春満へ宛てた書状二三一通が発見されたという。二〇〇七(平成一九)年三月には、研究成果報告書『近世国学の発展と荷田春満の史料的研究』に「史料荷田春満宛書状」として、そのうちの七七通の書状が紹介されている(http://www.azumamaro-kokugaku.jp/oldpage/seika/report/kada_report1_1.pdf)。
   なお、本稿に掲載されて取り上げられている史料(翻刻)は次のとおり。
  一、享保一二年七月一〇日 中井甃庵の書状
  二、享保一三年二月二〇日 芝崎宮内少輔好安の書状
  三、享保一一年六月二七日 勝見杢之介正景の書状
  四、享保一一年九月二九日 勝見杢之介正景の書状
  五、享保一一年一二月二日 喜多埜隠士(勝見杢之介正景)の書状
  六、享保一二年四月二七日 秋田民部博芳の書状
  七、享保一一年三月二八日 しんせういん(真照院)の消息
  八、享保一〇年一〇月一三日 松平権之助信富の書状
  九、中井竹山著『学問所建立記録』(部分)
(4)西村天囚『懐徳堂考』[復刻版]上巻一六頁(一九一〇~一一初版。[復刻版]一九八四年、懐徳堂友の会)、中井天生「甃菴先生貽範家君行状」(『懐徳』第一九号、一九四一年、懐徳堂堂友会、一六頁)などを参照。
(5)春満の門人か。山名霊淵について、本稿一四九頁には、『津市史第三巻』(津市役所、一九六一年)を引いて、「民間学者で伊予町稲荷神社の別当として少しの官米を受けていたが藩士ではなかった。京都に遊学して朱子学を奉じ、神道にも通じ、和歌・詩文・書をよくし、伊藤東涯とも文通し、京阪地方では相当に認められたが、津(安濃津)藩内ではあまり知られていなかった」と記述している。
(6)享保一一年六月一九日の「三輪執斎書状」を参照。当該史料は、「懐徳堂旧記拾遺」(『懐徳』第一四号)に翻刻されている。

 

中井竹山『詩律兆』の再評価

劉欣佳「中井竹山『詩律兆』考—その歴史的意義を中心に」(『日本中国学会報』七十六号、二三二~二四五頁、二〇二四年)☆
荒川兼汰
 本論考は、題目の通り、中井竹山撰『詩律兆』の歴史的意義を明らかにすることを目的としており、併せて『詩律兆』の日中声律学への影響と、『詩律兆』の声律学上の指摘の妥当性とを検証したものである。
 筆者は、『詩律兆』の構成の基礎的分析に始まり、本朝近世の声律学の状況を精査した上で日本声律学史に於ける『詩律兆』の意義を示し、さらには近現代中国声律学との比較を通して『詩律兆』の学術的価値を論じている。日本漢学分野のみならず漢詩声律学分野からも分析を推し進めた点が、本論考の特色の一つであろう。
 第一章「『詩律兆』の構成と編纂目的」では、『詩律兆』の構成の基礎的な分析が試みられている。『詩律兆』編纂の過程について、「おそらく竹山は『唐詩品彙』 (注1)を最大限利用した可能性が高い」と筆者は考察しており、また同書は「約二十年の長きに亘って、竹山が繰り返し修訂を加えていた可能性」があると指摘した。加えて、『詩律兆』の編纂動機についても論及し、当時詩壇の中心にあった蘐園学派への批判という側面を認めつつも、「簡略に過ぎる従来の作詩方法や謬説を正し」、「新たなる声律論の再構築を目指した」ものであると筆者は結論付ける。
 第二章「『詩律兆』における江戸初期諸説の批判と總括」では、本朝近世に広く流布していた「二四不同・二六対」「下三連」「挟み平」「四仄一平」の四種の声律諸説に対する、竹山の批判の妥当性を検討している。結論から言えば、筆者は『詩律兆』の批判・分析内容が、清朝や現代中国の声律論と合致していることを指摘し、中には「中国の声律論よりもさらに厳密に個々の検討を行」っている例もあるという。『詩律兆』は「当時の漢詩声律学における一般的理解を遥かに超えて」おり、「日本の漢詩声律学の新たなる方向性を示したもの」であると筆者は評する。
 第三章「『詩律兆』の新しい論点とその確度—中国声律学説との比較を通じて―」に於いて、は、『詩律兆』の声律学が、王力氏『漢語詩律学』と比較しても殆ど遜色ない水準、あるいは『漢語詩律学』すらも凌ぐほど精緻な検討がなされていることを力説する。比較に際しては「丑類特殊形式」(注2) 、「孤平拗救句『仄平平仄平』の適否」(注3) という二つの観点から分析し、筆者は「竹山の結論がより正確であることが証明できる」と結論付けた。ここに於いて筆者は「『詩律兆』を再評価すべき」と断じている。
 第四章「江戸時代における評価と影響」には、『詩律兆』の同時代評、および刊行後の日本声律学への影響について言及されている。前者について筆者は「本書の価値を具体的に説いた江戸後期の言説は決して多くはない」としながらも、市河寛斎、頼春水、頼山陽らが『詩律兆』を高く評価した例を挙げ、「この書がすでに知る人ぞ知る存在として受け入れられていた」と論じる。後者については兪樾撰『東瀛詩選』(注4) を例にとって、前章で述べられた「丑類特殊形式」を使用する日本人が『東瀛詩選』中に三名挙げられていることを指摘し、「『丑類特殊形式』の使用が彼らの時代に広まっていた可能性」について言及した。
 第五章「中国への還流」では、竹山の『詩律兆』が近現代中国の声律学にも影響を与えていたことを明らかにした。清末民国時代の学者であり、詩人としても名高い黄節 (注5)が自身の著作『詩律』に於いて、竹山の『詩律兆』を大幅に引用していることが示され、筆者によれば「九割以上が『詩律兆』に基づいていることが判明」したという。そしてこのことは、近現代中国に於いても「『詩律兆』が十分踏襲するに足る高水準」であったことを「はからずも証明している」と筆者はまとめている。
 筆者は第一章から第五章を総括して、竹山の『詩律兆』が日中声律学に大きな影響を与えたこと、現代中国声律学から見ても『詩律兆』は高度で精緻な結論を導き出していると言えること、そして日本漢詩声律学に新たな方向性を提示したことを鑑み、『詩律兆』は「『七経孟子攷文』、『全唐詩逸』に勝るとも劣らない重要な歴史的意義を有している」と評した。
 如上の筆者による正確な分析によって、中井竹山撰『詩律兆』の歴史的意義や声律学上の価値が大部分明らかになったと言えよう。さらには、本論考により『詩律兆』の再評価の必要性が認識された。筆者も指摘しているが、これまで中井竹山撰『詩律兆』を扱った研究はほとんど皆無に等しく、先行する研究も不足しているのが現状であった。しかし、本論考の成果により、『詩律兆』の歴史的意義、日中声律学への影響、そして声律学上の指摘の妥当性が明らかとなり、『詩律兆』並びに本朝近世の漢詩声律学の研究が大きく進展したと言えるだろう。
(1)明、高棅の撰。筆者の説明によれば「『唐詩品彙』は百巻から成り、所収の五七言近体詩の總数は三六九八首に上る」という。さらに筆者は「唐詩については、清康熙帝勅撰の『全唐詩』九百巻」が「時期的には利用可能であったはずだが、おそらく竹山の当時にあってはなお稀覯書であったため、利用できなかったのであろう」と推測している。
(2)王力『漢語詩律学』による呼称で、筆者は「五言詩における出句の二字目と四字目が仄、対句の三字目が平となる配置(両仄両仄仄、両平平仄平)や、七言詩の下五字における同様の配置(両平両仄両仄仄、両仄両平平仄平)は「二四不同・二六対」の原則に違反するが、近体詩において特殊な平仄形式として使用されて」おり、「この形式を「丑類特殊形式」と称している」と説明する。
(3)こちらも王力『漢語詩律学』による呼称で、「「五言平起有韻」の標準型は「平平仄仄平」、「七言仄起有韻」のそれは「両仄平平仄仄平」」であり、「五言第一字、七言第三字が仄の場合は、孤平を避けるために五言第三字、七言第五字を平に変える」その形式を「孤平拗救句」と称すると筆者は説明している。
(4)筆者によれば、兪樾の『東瀛詩選』編纂方針は「声律に問題がある場合は原則として選ばない」が「秀句が含まれる場合は、声律上問題のある字を別の字に改め採録する」というものであったという。
(5)筆者は「黄節(一八七三~一九三五)、原名は晦聞、字は玉昆、号は純熙。(中略)北京大学文学院の教授および清華大学研究院導師を勤めた。彼は詩名が高く、「嶺南近代四家」の一人に数えられる」と解説している。